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曹操と劉備の英雄論

蜀伝


杜瓊 伯瑜とけい はくゆ

姓名杜瓊
伯瑜
生没年? - 250年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評学業と極め、政治に精通し、才能を高く評価された人物
主な関連人物 劉備 劉禅 譙周 
関連年表 214年 議曹従事となる
223年 諫議大夫となる

略歴

杜瓊、字を伯瑜といい、蜀郡成都県の人である。

若いころ任安から図識の術を学び、任安の技術に精通した。劉璋の時代、召し出されて従事となった。

劉備は益州を平定し、牧を兼務すると、杜瓊を議曹従事に任じた。

劉禅が即位すると、諫議大夫に任命され、左中郎将、大鴻臚、太常と昇進した。

杜瓊の学業は深奥を極めていたが、天界の事象を見て説を立てるようなことをまったくやらなかった。後進の博識の儒者ショウ周がその理由をたずねると、杜瓊は「この術を明らかにしようとするのは非常に困難であって、自分自身で事象を観察し、その形と色を見分けなければならず、他人の目を信用するわけにはいかない。朝も晩も激しく働いてはじめてそれがわかるのだが、今度はそれが人に漏れないかと心配になる。知らないほうがましで、そのため二度と観察しないのだ」と答えた。

ショウ周がさらに「昔、周微君(舒)は当塗高とは魏であると述べましたが、その意味は何ですか」とたずねると、杜瓊は、「魏とは宮城の門の名称であって、塗(道路)に当って(面して)高くそびえている。聖人(予言者の作者)は類推できるものを持ち出して説明するのだ」と答えたうえでショウ周にたずねた、「どこかまだ不審な点があるかね」ショウ周が「まだ理解できません」と答えたので、杜瓊はさらにいった、「昔は官職を名付けて曹とはいわなかった。漢以降はじめて、官(役所の部局)のことを曹というようになり、吏(役人)を属曹といい、卒(役所の下働き)を侍曹と呼ぶようになったのである。これはほとんど天の意志である」と答えた。

杜瓊は八十余歳で、250年に亡くなった。享年不明。


評価

静かで控え目な人柄で口数少なく、門を閉ざしてじっとしており、世間の事に関与しなかった。蒋エンや費イらはみな彼の才能を高く評価した。

「韓詩章句」十余万言を著述したが、子供たちには伝授せず、その讖緯の学を伝承する者はいなかった。


逸話

ショウ周は杜瓊のことばを基としつつ、他の類似した事象にあてはめて拡大し、次のように述べ、「『春秋[左氏]伝』(桓公二年)に、晋の穆侯が太子を仇と名づけ、その弟を成師と名付けたとき、師服(晋の大夫)が、『妙なことだ、ご主君の子の名付けられ方は。よき相手を妃といい、怨んでいる相手を仇という。今ご主君は太子を仇と名付けられ、弟君を成師と名付けられた。混乱の兆があらわれたのだ。兄が廃嫡されることになろうか』といったと記されている。その後、果たせるかな師服のいうとおりになった。また漢の霊帝は、二人の子に史侯・董侯と侯の名を付けているが、即位して皇帝になられた後、二人ともやめさせられて諸侯になった。師服の言葉と似た現象である。劉備の諱は備であり、その字義は具(完結する)である。劉禅の諱は禅であり、その字義は授(さずける)である。劉氏はすでに完結した、まさに人に授けるべしというのと等しいことになる。意味するところは穆侯や霊帝の子の名付け方よりひどい」といった。

後に宦官の黄皓が宮中で権力をふるうようになり、262年、宮中の大樹が理由もないのに、ひとりでに折れる事件があった。ショウ周はその事件に深い懸念を抱いていたが、語りかける相手もいなかったので、柱に次のように書きつけた。

「衆にして大であれば、期日を約して人はあつまってくるものだ。具わって授けたなら、どうして復せようか」その意味を述べると、曹とは衆(民が多い)の意であり、魏とは大の意である。衆にして大であれば、天下の人は当然あつまってくる。具わって(完結して)授けたならば、どうしてさらに即位するものがあろうか、ということになる。

蜀が滅亡したのち、人々はみなショウ周の言が証拠立てられたと思った。ショウ周は、「これは自分が推論したものであるが、しかしもとづく所はあり、杜君(杜瓊)のことばを基にそれをおし広げただけである。霊妙な心の働きによって独自に到着した特異な所などまったくないのである」といった。