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姓名 | 許慈 |
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字 | 仁篤 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備の蜀平定後に孟光、来敏らとともに先代の慣例制度を扱った学士 |
主な関連人物 | 劉備 孟光 来敏 胡潜 |
関連年表 |
215年 慣例制度を扱う |
許慈、字を仁篤といい、南陽の人である。子は許クンがいる。
劉煕に師事して、鄭玄の学問をよくし、『易』『尚書』『三礼』(『礼記』『周礼』『儀礼』)『毛詞』『論語』を学んだ。
建安年間、許靖らとともに交州から蜀に入った。当時まだ、魏郡の胡潜、字を公興というものがいたが、彼が益州に住むにいたった経過はつまびらかでない。胡潜は、幅広い学識はなかったけれども、ずばぬけた記憶力を有し、祖先の祭祀の儀式次第、葬儀の規則と親疎の差による五階級の喪服といったさだめを、すべて手の平に指で書き示したり、地面に描いて見せるほど熟知しており、手をあげて物をとるように知識を取り出した。
劉備が蜀を平定したとき、動乱が続くこと十数年に及び、学問は衰退していた。そこで書籍を収集し、種々の学問をふるいにかけ、許慈と胡潜をいずれも学士に任命し、孟光・来敏らとともに先代の慣例制度を扱わせた。
ちょうど、万事の草創期にあたっていたので、ややもすれば異論が頻出した。許慈と胡潜は互いに相手をおさえこもうとし、非難をあびせあい感情をむき出しにして争い、声や顔色にまで出るほどであった。互いに持ってない書物を貸し借りすることもなく、時には鞭をふるって相手をおどしつけるほどであった。彼らの自分の我を通し、相手を嫉妬する態度は、それほどひどかった。
劉備は彼らのそのようなありさまにあわれをもよおし、群臣を集めて大宴会をした席上で芸人に二人のかっこうをさせて、彼らが争いあう姿を真似させることにした。酒宴たけなわとなり音楽を演奏する時に至るとそれをやらせ、酒のさかなとした。
最初は言葉のやりとりで非難しあっていたが、最後には刀や杖で相手を屈服させるさまを演じさせて、彼らを反省させた。
胡潜は先に死没したが、許慈は劉禅の時代に次第に昇進して大長秋(宦官の最高位)にまでなり、亡くなった。
孫盛曰く、蜀は人材に乏しかったので、許慈と胡潜がともに蜀書に載録されたのである、と指摘している。