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姓名 | 費禕 |
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字 | 文偉 |
生没年 | ? - 253年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 敬侯 |
伝評 | 後年の蜀を支え、軍事・内政を牽引した大将軍 |
主な関連人物 | 諸葛亮 蔣琬 董允 |
関連年表 |
214年 劉備に目通りする 223年 黄門侍郎となる 230年 中護軍・司馬となる 234年 後軍師・尚書令となる 243年 大将軍・録尚書事となる 252年 幕府を開く |
費禕([示]編に韋)、字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。子は、費承、費恭がおり、娘は皇太子劉璿の妃。
幼いころ父を失い、叔父の費伯仁のもとへ身を寄せた。伯仁の姑は益州の牧劉璋の母であった。劉璋は使者を派遣して伯仁を迎えさせ、伯仁は費禕をつれて遊学し蜀に入った。
ちょうど劉備が蜀を平定したため、費禕はそのまま益州に留まることになり、汝南郡の許叔龍、南郡の董允らと名声を等しくした。
そのころ許靖が息子をなくし、董允は費禕といっしょに葬儀場へ行きたいと思った。董允が父の董和に馬車が欲しいと頼むと、董和は後部の開いた鹿車を彼にあてがった。董允はこれに乗り渋っていたが、費禕はすぐに前方から先に乗り込んだ。葬儀場に到着すると、諸葛亮や高官たちがことごとく参集しており、彼らの馬車はたいへんりっぱであった。
董允はやはり不安げなようすであったが、費禕のほうはゆったりと落ち着きはらっていた。御者が家に戻ると、董和は彼にたずねてそのありさまを知り、董允に向かって、「わしは、いつもおまえと文偉のどちらが秀れているか測りかねていたが、今ではもうわしにもよくわかった」といった。
劉備が皇太子を立てたときに、費禕は董允とともに太子舎人となり、太子庶子に昇進した。
劉禅が即位すると、黄門侍郎に任命された。丞相諸葛亮が南征から帰還した際、官僚たちは数十里先まで歓迎に出向いた。ほとんどの人は年齢・官位ともに費禕より上であったにもかかわらず、諸葛亮は特別に費禕を名指しして車に同乗させた。このことから人々はみな彼に対する見方を改めた。
諸葛亮は南から帰った当初、費禕を昭信校尉に任じ、呉へ使者として派遣した。孫権は生来口達者なうえに、人をやたらにからかう癖があり、諸葛恪・洋ドウらは才能が広く弁舌さわやかであって、議論をふっかけ舌鋒をふるって攻撃してきたが、費禕が正しい言葉使いと篤実な態度で、道理によりつつ返答したので、けっきょく屈服させることができなかった。孫権は彼の人物を高くかい、費禕に向かって、「君は天下の善徳の士である。必ずや蜀朝の股肱の臣となるであろうから、たぶん何度も来ることは不可能だろうな」といった。
帰国すると、侍中に昇進した。
諸葛亮は北方の漢中に駐留すると、劉禅に願い出て費禕を参軍とした。使者としてめがねにかなったので、しきりに呉へ使いした。
230年、中護軍に転じ、後にまた司馬となった。ちょうど軍師の魏延と長史の楊儀が互いに憎みあい、同じ席にあって争論にでもなれば、魏延はあるいは刃をふりあげて楊儀につきつけてみせ、楊儀は頬に涙を流すというありさまであった。費禕はいつも両者の座席の間に割って入り、諌め諭して分かさせた。諸葛亮が死ぬまで、魏延・楊儀のもつ能力をそれぞれ発揮させたのは、費禕の助力のおかげであった。
諸葛亮がなくなると、費禕は後軍師となった。ほどなく蔣琬に代わって尚書令となった。
蔣琬が漢中より戻ると、費禕は大将軍・録尚書事に昇進した。
244年、魏軍が興勢に駐屯したため、費禕に節を貸し与え、軍勢を率いて防禦に向かわせた。光禄大夫の来敏が費禕のもとに別れの挨拶にやってきて、囲碁をやろうと申し出た。そのとき、軍兵召集の至急文書がとびかい、人も馬もよろいかぶとを身につけ、馬車の準備もすでに完了していたにもかかわらず、費禕は来敏とともに対局に熱中し、いやがる様子は見せなかった。来敏は、「さきほどはいささかあなたを試してみたのです。あなたは本当に適任者です。必ず賊軍を料理することができるでしょう」といった。
費禕が到着したことで敵軍は退却し、成郷侯に封じられた。
蔣琬がかたく州職を辞退したため、費禕はふたたび益州刺史を兼任することになった。費禕は国政を担当した功績・名声はほぼ蔣琬と匹敵した。
248年、出陣して漢中に駐屯した。蔣琬より費禕に至るまで、その身は外地まに滞在していたけれども、国の恩賞・刑罰はすべてはるかに彼らに諮問して決定させ、その後で実施した。彼らに対する信任ぶりはこれほどであった。
251年夏、成都に帰還したが、成都にいる雲気を見て吉凶を占う占師が、都に宰相の位がなくなっていると述べた。そのため冬にはふたたび北方の漢寿に駐屯することになった。
252年、費禕に命じて幕府を開かせた。
253年正月、大宴会が催され、そこに魏の降伏者郭循が出席していた。費禕はたのしげに飲み酔いつぶれて、郭循のために刺殺された。享年不明。
孫権はいつも手にしている宝刀を費禕に贈ったところ、費禕は、「臣は不才でありますゆえ、どうして恩賜にたえることができますでしょうか。しかしながら、刀は王命に従わぬ者を討伐し、、暴虐をおさえるためのものであります。ひたすら大王さまが功業の樹立におはげみになり、ともに漢室を推し立ててくださることを願っております。臣は暗愚ではありますが、終生東方の恩顧に背かない所存です」と答えた。
また、費禕は、軍事・国政とともに多事で、公務は煩雑をきわめていた。費禕は人なみはずれた理解力をもっており、記録を読む場合いつも目をあげてしばらくみつめただけで、もうその内容に精通した。その早さは人の数倍であり、またけっして忘れることはなかった。いつも朝と夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊びたわむれ、博弈までし、人のやる楽しみを尽くしながら、仕事も怠らなかった。
董允は費禕に代わって尚書令となると、費禕の行為をまねようとしたが、十日の間に、多くの仕事が渋滞してしまった。董允はそこで嘆息して、「人間の才能・力量がこれほどかけ離れているとは。これはわしの及びもつかぬことだ。一日じゅう政務にかかりきでいて、まだ暇がないことさえあるのだから」といった。
費禕は、元来慎み深く質素な性格で、家に蓄財をすることはなかった。子供たちにもみな質素な衣服を着せ、簡素な食事をとらせ、出入りに車騎を従えさせず、普通人と変わらない生活をさせた。
陳寿の評では、費禕は寛容で人を差別なく愛し、諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのため安定し、国家は和合した。しかしながら、公務以外の場における身の処し方を充分にわきまえていなかった、としている。
裴松之によると、よく国民を一つにまとめようと心がけ、一度も功業を求めていいかげんな軍事行動をおこして国に損害を与えることなく、国内安定を保った。公務以外の場での身の処し方が、どうしてそれほど大きな問題であろう。いまそれらが不充分だったことを非難して、すぐれた事績を無視している。したがって批判の根拠が何かを理解しかねる結果になっている、と陳寿の評に反論している。
殷基の『通語』によると、司馬懿が曹爽を処刑した際、費禕は甲乙二論を立ててその是非を批評した内容が詳細にある。