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姓名 | 蔣琬 |
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字 | 公琰 |
生没年 | ? - 246年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 恭侯 |
伝評 | 諸葛亮に後事を託され、国家を担う器と称された政治家 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 劉禅 費禕 |
関連年表 |
219年 尚書郎となる 223年 東曹掾となる 230年 長史・撫軍将軍となる 234年 益州刺史・大将軍・録尚書事となる 239年 大司馬を兼任する |
蔣琬、字を公琰といい、零陵郡湘郷県の人である。子は蔣斌、蔣顕らがいる。
二十歳のときに外弟(父の姉妹の子、あるいは母の兄弟・姉妹の子)の泉陵の劉敏とともに名を知られた。蔣琬は州の書佐として劉備に随行して蜀に入り、広都の長に任命された。
劉備はあるとき遊覧のついでに突然広郡を訪れたことがあった。蔣琬が仕事をほとんど放置しているうえに、ちょうどそのとき泥酔していたのを見て、大いに立腹し、処罰しようとしたが、軍師将軍の諸葛亮が懇請して、「蔣琬は国家を背負う大器です。百里四方の土地を治めるような人物ではありません。彼の行政は住民を安定させることを根本としており、外見をよくすることを第一とは思っていないのです。願わくばご主君にはその点を充分ご推察くださいますように」といった。劉備はもとより諸葛亮を敬愛していたから処罰を加えず、その場で免官することにとどめた。
蔣琬は取り調べを受けた後、夜、一つの牛の頭が門前に転がっていて、たらたらと血を流している夢をみて、内心ひじょうに不快をおぼえ、夢占いの趙直を呼んで質問した。
趙直は「そもそも血を見たというのは政治に明るいことで宰相にふさわしい資質を意味します。牛の角と鼻とで、『公』の字の形になります。あなたの位は必ずや公にまで到達されるにちがいありません。大吉のしるしです」といた。ほどなく、什邡の令となった。
劉備が漢中王になると、蔣琬は政府に入って尚書郎となった。
223年、丞相の諸葛亮は幕府を開くと、蔣琬を召し出して東曹掾とした。
茂才に推挙されたが、蔣琬はあくまで劉邕・陰化・龐延・廖淳に譲り、受けなかった。諸葛亮は諭して「思うに、近しい者の期待を裏切り推挙の恩徳を無視し、その結果、人民を破滅にみちびくのは、人々の同情を得られない行為である。そのうえ実際、遠くの人にも近くの人にもその理由を理解させられない。それゆえ、君は過去の実績をふまえて推挙されたことをはっきりと示し、よってこの選抜の妥当さ、重要さを明らかにすべきである」と述べた。参軍に昇進した。
227年、諸葛亮が漢中に駐屯したとき、蔣琬は長史の張裔とともに留守を守って丞相の役所の事務をとりしきった。
230年、張裔に代わって長史となり、撫軍将軍の官位を加えられた。
諸葛亮はたびたび外征したが、蔣琬はいつも兵糧と軍兵を充足し、遠征軍に供給した。諸葛亮はつねに、「公琰は忠義公正を旨としており、わしとともに王業を支えるべき人物だ」といっていた。内密に劉禅に上表して「臣にもし不幸があれば、後の事はよろしく蔣琬にまかせてください」と述べていた。
諸葛亮が亡くなると、蔣琬を尚書令に任命し、まもなく行都護の官位を加え、仮節とし、益州刺史を兼任させ、大将軍・録尚書事に昇進させて、安陽亭侯に封じた。
当時諸葛亮を失ったところで、遠きも近きにも危惧の念を抱いていた。蔣琬は抜擢されて、諸官僚の上に位置することになったが、悲しみの様子もなければ、喜びの色もなく、心ばせも態度もまったくいつも変わらなかった。そのことから次第に人々の心服を得るようになった。
238年、蔣琬は詔が下された「戦火はいまだおさまらず、曹叡は傲慢で凶暴な男である。遼東の三郡はその暴虐に苦しみ、ついに糾合して、彼から離反するに至った。曹叡は大軍を動員してふたたび攻撃をかけている。昔、秦が滅亡したのは陳勝・呉広の反乱が口火となった。現在のこの事変は、これこそ天のあたえる好機である。君よ、さあ戦いの準備をととのえ、諸軍を統帥して漢中に駐屯し、呉の行動開始を待って、東西より相い呼応して、敵の隙に乗じよ」さらに蔣琬に命じて幕府を開かせ、翌年任地に使者をやって大司馬の官を加えた。
蔣琬は、昔、諸葛亮がたびたび秦川をうかがいながら、道路の険阻と運送の困難のために、けっきょく成功できなかったのだから、水に乗って東方へ下るほうがよいと考えた。そこで多くの船舶を造り、漢水を通って魏興・上庸を襲撃しようと望んだ。たまたま持病が続けざまに起こったため、ただちに実行に移せないでいた。しかも大多数の意見は、すべてもしも勝利が得られなかった場合、帰途ははなはだ困難になるだろうから、秀れた計略ではないということだった。その結果、尚書令の費禕、中監軍の姜維らに聖旨を伝えた。
243年、蔣琬は命令をうけると、上疏して姜維を涼州刺史として北方にあたらせて、河右の制圧を命じ、呼応して危機に駆けつけられると述べた。この上奏の結果、蔣琬は涪まで引き返して駐留することになった。
246年、病気がますますひどくなり、涪で亡くなった。享年不明。
陳寿の評にいうと、蔣琬は万事きっちりしていて威厳があり、諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのため辺境地帯は安定し、国家は和合した。しかしながら、小さな町を治める道を充分にわきまえていなかった、としている。
裴松之によると、蔣琬は宰相として、よく国民を一つにまとめるよう心がけ、一度も功業を求めていいかげんな軍事行動をおこして国に損害を与えることなく、外は駱谷の事を撤退させ、内は国内安定の実を保った。小さな町を治める道や、公務以外のことを非難して、上に述べたすぐれた実績を無視している。したがって、批判の根拠が何かを理解しかねる結果になっている、と擁護している。
東曹掾の楊戯は大まかな性格の人で、蔣琬と議論をしているときにも、返事をしないことがあった。ある人が楊戯を陥れようとして蔣琬にいった「公が楊戯に話しかけていらっしゃるのに返事をしないとは、楊戯の目上の者を馬鹿にする態度は、ひどすぎますな」蔣琬は、「人の心が同じでないのは、それぞれの顔がちがうのと同じだ。面と向かい合っているときには従い、後で文句をいうのは、昔の人がいましめているところである。楊戯は、わしの方針に賛成すれば、彼の本心に違うことになり、わしの言葉に反対すれば、わしの非を明らかにすることになると考え、それで沈黙していたのだ。これこそ楊戯のさわやかな態度だ」といった。
また督農の楊戯がかつて蔣琬をそしって、「事を行うにあたって右往左往し、まったく前任者に及ばない」といった。ある者がそれを蔣琬に報告し、係官が楊戯を取り調べたいと願い出たが、蔣琬は、「わしは事実、前任者に及ばないのだから、取り調べる必要はない」といった。係官は、大目にみて取り調べない件について重ねて問題にし、「右往左往している」といった件について訊問したいと申し出た。蔣琬は、「かりにも及ばないならば、事はうまく処理できない。うまく処理できないならば、右往左往することになる。いったい何を訊問をするのかね」といった。
後に楊戯はある事件がもとで獄につながれた。人々はやはり彼がまちがいなく死罪に処せられると心配したが、蔣琬は個人的感情によって判断する人間ではなく、重罪をまぬがれることができた。好悪の情はそれとして、道理をもととした彼の態度は、すべてこのようであった。