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姓名 | 麋芳 |
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字 | 子方 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備の外戚でありながら、関羽と不仲により裏切った武将 |
主な関連人物 | 劉備 関羽 麋竺 士仁 |
関連年表 |
196年 彭城国の相となる 211年 南郡太守となる |
麋芳、字を子方といい、徐州東海郡朐県の人である。兄は麋竺、妹は麋夫人がいる。
194年、徐州の牧陶謙の遺命があって劉備が徐州を統治したとき、麋芳は兄糜竺とともに彼に仕えた。兄弟は劉備に手厚い経済的援助をした。
196年、劉備は呂布に敗れて曹操に身を寄せた。曹操は彼を厚遇して豫州の牧とし、この時、張飛が中郎将に任じられ、麋芳は彭城国の相に任じた。
董承らの曹操暗殺計画に加わっていた劉備が、露顕を恐れて許都から脱出し、麋芳と麋竺はこれに随従した。
211年、劉備は劉璋に漢中の張魯討伐を依頼されて益州に入ったが、劉璋の僅かな違約があって劉備は引き返して攻撃した。
212年12月、成都の攻撃に向かって涪城まで進み、攻撃した劉璋軍を連破した。とともに、荊州から諸葛亮・張飛・趙雲らの軍を呼び寄せた。残った関羽は荊州を総督し、南郡太守麋芳は江陵に、将軍士仁は公安に駐屯して変事に備えた。
以前、南郡城内に失火があり、軍備品をいくらか焼いてしまった。関羽に責められた麋芳は内心におそれを抱いた。その後、間が悪いことに、麋芳は関羽の怒りを増幅させる失態を演じてしまった。麋芳・士仁らは関羽とそりが合わなかった。これが、孫権の知るところとなり、麋芳は味方に付くように誘うと、彼はひそかに誼を通じた。
219年、呂蒙が南郡に攻め掛かると、麋芳は戦意に乏しかった。その後、虞翻の献策を用いて呂蒙が連れていた士仁の姿をみて、すっかり観念してしまった。麋芳は牛肉と酒を用意して投降した。
当時、城内では兵を潜めて敵の不意を襲う計画があった。呂蒙に随従していた虞翻が、「いち早く城内に入って敵の動きを封じるべきでありましょう」と進言したため、この計画は実行されぬままに終わった。
223年、麋芳は賀斉に付き従って呉を裏切った斬春、晋宗を攻撃した。
虞翻伝によると、虞翻があるとき船に乗って出かける途中で、麋芳の一行と出会った。麋芳の船には多くの人が乗っており、虞翻のほうに水路を開けさせようとして、先導している者が「将軍の船を避けよ」といった。虞翻は大声で、「忠と信とが守れないのに、何によって主君に仕えるというのか。あずかった城を二つも失いながら、将軍だなどと名乗ってよいものであろうか」麋芳は船の戸を閉ざして返答せず、いそいで虞翻の船を避けさせた。
のちにまた、虞翻が車に乗って出かける途中に麋芳の軍営の門を通りかかったが、役人が門を閉ざして、車は通ることができなかった。虞翻はまた腹を立てて、「閉めるべきときに城門を開けて降服したりしながら、開けておくべきときに門を閉ざしたりする。ものごとの正しいやり方が分かっておるのか」麋芳はこれを聞いて、恥ずかしそうな顔をした。
麋芳のその後の記録は何も残っていない。
『三国志演義』でも、兄と共に劉備配下として活躍する一方、長坂の戦いでは劉備の家族を取り戻そうと敵中に入った趙雲の行為を、裏切りと早合点し劉備に讒言した。
劉備が呉討伐を開始した時、自分と傅士仁を殺して蜀に戻ろうとする荊州出身の兵士を恐れ、劉備の親戚であるから処刑されないと考え、傅士仁と共に馬忠を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻った。しかし、関羽を裏切った事への劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に処刑された。
吉川英治の小説『三国志』では、関羽の子関興に引き渡され、父の仇として斬り殺される。