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姓名 | 士仁 |
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字 | 君義 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 説得に負けて裏切り、関羽を敗死させた将軍 |
主な関連人物 | 劉備 関羽 麋芳 |
関連年表 |
219年 公安城主となる |
士仁、字を君義といい、広陽郡の人である。
劉備が旗揚げしたとき、若いころから彼に随従していた。
211年、劉備が益州に入ると、荊州を関羽に委任した際に、士仁も守りとして残った。
219年、関羽が樊城の攻撃に向かうと、士仁は公安を守り、麋芳は南郡を守った。この隙に孫権は荊州を奪おうと動いた。呂蒙は兵士を船中に隠し、櫓を操る者に白衣を着せて商人を装わせ、昼夜兼行で長江を遡上した。そして関羽が江辺に配置した監視を奇襲して兵士全員を縛り上げ、関羽に情報が伝わらないようにした。
呂蒙は公安に到着すると、虞翻に命じて士仁に降伏を説得させた。虞翻は城門の前に立ち、門番に「汝の将軍に話がある」と伝えたが、士仁は会おうとしなかった。そこで虞翻は士仁に宛てて書簡を送った。
「理に明るい者は禍が兆す前に防ぎ、智者は未然に憂患に対処します。事の得失を知って人の上に立つことが出来、存亡を知ってこそ事の吉凶を識別することができます。大軍が行動を起こしたのに屯候は役に立たず、狼煙を挙げられなかったのは、天が呉に味方したのでなければ、必ず内通者がいたに間違いありません。将軍は先んじて時を見ようとせず、時が来たのに、これに対応することなく、包囲された城を独り守って降伏なさらない。戦って落命されれば先祖に祀りを絶やし、天下の嘲笑を浴びましょう。呂将軍は南郡に赴き、陸路を断とうとしています。生き残る道が一度断たれたならば、慌てて逃走しても免れず、降伏すれば義を失います。どうしたらよいか、私は将軍のために安らかぬ思いをしております」読んだ士仁は涙を流して降伏した。
虞翻は呂蒙に「これは軍を欺く策略というもの。士仁を率いて軍を進め、公安は味方の兵を守らせるのがよろしいでしょう」と進言した。呂蒙はこの策を用いて南郡に進み、麋芳に士仁の姿をみせると、彼もまた降伏した。
士仁、麋芳は「素よりみな関羽の己を軽んずるを嫌う」間柄であり、また、荊州治中の潘濬も敬うことなかったのであっさりと投降した。
こんな確執があったために、関羽が樊城に軍を出した際に、彼らは軍資の供給に全力を尽くそうとしなかった。関羽は還ったら処罰すると言い、麋芳と士仁は不安を抱いていた。
『三国志演義』では虞翻の親友にされている。関羽の敵討ちのために攻めて来た蜀漢軍に怯え、糜芳と共に馬忠を斬り、その首級を持って呉から離反する。しかし、劉備に命乞いするも許されず、関羽の子関興に斬首されることになっている。
呉に降ってからの士仁の消息は麋芳と異なって不明ある。また、出身地の広陽は劉備の故郷涿県の隣だったことから、若いころからつき従ったのではないかと思われる。
演義では姓名を傅士仁としているが、関羽伝の表記に従って表記されたものであり、これは文中に誤字した文字で、そのまま演義で使われている。