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蜀伝


周倉 しゅうそう

姓名周倉
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生没年? - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評関羽に一生の忠義を誓い、戦場を駆け巡った架空の人物
主な関連人物 関羽 関平 
関連年表 184年 臥牛山の山賊となる
200年 関羽の側近となる

略歴

正史には記録がない架空の人物である。


演義

周倉、古典劇目の『走麦城』『収周倉』『収関平』では字は元福といい、涼州の人である。

184年、黄巾の乱に参加して、後に裴元紹とともに臥牛山で山賊となった。

200年、関羽が五関の六将を斬って劉備の元へ向かう途中、関羽と出会い、子分を裴元紹に預ける事を条件に同行を許された。その後、張飛と合流した関羽の命令で裴元紹を迎えに行くが、趙雲と出くわし、裴元紹らは散々に打ち負かされた。

212年、劉備が益州へ入ると、関羽とともに荊州を守った。

216年、関羽が魯粛と単刀会を行うと、その従者として参加した。魯粛の主、孫権はあらかじめ謀によって関羽を闇討ちしようと企んだが、会談がこじれる中、周倉が横合いから「天下の土地は徳にある者が治めるのだ。東呉のものではない」と罵声を上げると、これに怒った関羽に退出させられた。しかし、これは会談での闇討ちを露見していた関羽によってあらかじめ決められていた合図であり、退出した周倉は江岸で旗を振って味方の水軍に呼び寄せた。関羽もまた魯粛を人質に取ったので、関羽と周倉は孫権の罠から無事に生還した。

218年、関羽は襄陽を水攻めすることによって于禁の七軍を沈め、周倉は、濁流からの脱出を図る龐徳の小船に蒙衝をぶつけて転覆させると、得意の水練で龐徳を捕獲した。

219年、傅士仁、糜芳らが裏切って江陵・公安が落ち、関羽とともに麦城へ敗走した。廖化が劉封に救援を求めて決死で脱出したが、関羽はしびれをきらして自ら出陣することを決めた。周倉は王甫とともに麦城を守ることになった。

数日後、孫権軍は関羽を処刑したことを告げ降伏を迫った。周倉は関羽のさらし首をみて涙をし、城壁から飛び降りて自殺した。


見解

両腕に1千斤の怪力があり、鉄板のような厚い胸板に、渦を巻くような形の縮れ髭の容姿であった。

赤兎馬で駆ける関羽を懸命に走る周倉を哀れんだ関羽は、彼に馬を与えようと考えた。しかし、一日千里を駆ける赤兎馬に匹敵する馬など見つかるはずも無く、何とか一日九百里を駆ける馬を見つけられたのでこれを与えた。ありがたく頂いたものの、周倉は困っていた。九百里を駆ける馬では日ごとに関羽に百里離されてしまう。そこで周倉は馬に乗って九百里を駆け、残りの百里は馬を背負って自分の足で走ったという。

ある日、関羽と周倉を離す為に呂蒙が周倉の友人を買収し周倉の足の速さの秘密を調べることがあった。その秘密とは、周倉の足の裏には3本の毛が生えていただけだった。その友人はさっそく周倉を酒で酔わせて足の裏の3本の毛を抜いてしまった。そのせいか、周倉は足が速く走れなくなってしまい呂蒙が関羽を見事に捕らえることに成功したという。

関羽の側近としてあまりにも有名なため、実在の人物ではないにもかかわらず、湖北省当陽県麦城村(当陽市南東30km)には墓が建立され、関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られている。中国や華僑の居住地では、現在でも信仰の対象とされている。