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姓名 | 李典 |
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字 | 曼成 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 愍侯 |
伝評 | 歴戦を転々とし武功を立てた謙虚な人物 |
主な関連人物 | 曹操 夏侯惇 張遼 楽進 |
関連年表 |
193年 青州の黄巾賊討伐 197年 淮水の戦い 198年 呂布討伐 200年 劉備討伐 官渡の戦い 206年 高幹の乱を平定 215年 合肥の戦い |
李典、字を曼成といい、山陽郡鉅野県の人である。従父は李乾、子は李禎がいる。
若いころ学問が好きで、軍事は好まなかった。そして先生について『春秋左氏伝』を読み、広く種々の書物を見た。
初平年間、軍勢をひきつれ曹操につき従い、寿張において黄巾賊を打ち破った。またつき従って袁術を攻撃、徐州を征討した。
呂布の乱のとき、曹操は李乾を乗氏に帰し、諸県をいたわりねぎらわせた。呂布の別駕薛蘭と治中の李封は李乾を招き、いっしょに反逆しようとしたが、李乾がききいれなかったので、けっきょく李乾は殺害された。
曹操は李乾の子の李整に李乾の兵をひきいさせ、諸将とともに薛蘭・李封を攻撃させた。撃ち破ると、つき従ってエン州の諸県を平定し功績を立てた。だんだんと昇進して青州の刺史となった。李整が亡くなると、李典は潁陰の令に移り、中郎将となって李整の軍をひきいた。
曹操は、李典が学問を好むことを知り、ためしに人民の統治をさせてみた。離狐の太守に昇進した。
当時曹操は袁紹と官渡で対峙していた。李典は一族と部下をひきつれ、穀物と絹を輸送して軍に供給した。袁紹が打ち破られると、李典は裨将軍となり、安民に駐屯した。
曹操は袁譚と袁尚を黎陽に攻撃したとき、李典に命じ、程イクらとともに船で兵糧を運送させた。たまたま袁尚は魏郡太守の高蕃に兵をひきつれて黄河のほとりに駐屯することを命じ、水路を絶ち切らせた。曹操は李典と程イクに、船が通れないなら、船をおりて陸を通れと命じた。李典は諸将と相談して、高蕃の軍はよろい武者が少なく、気持ちがだらけて、統御されておらず、攻撃すれば勝利は間違いないので、すみやかに攻撃すべきだといった。程イクも賛成した。かくて北に向かい黄河を渡り、高蕃を攻撃して打ち破り、水路を通ずることができた。
劉表が劉備を使って北方に侵入させ、葉まで来た。曹操は李典に命じ夏侯惇につき従わせて劉備を防がせた。劉備はある朝、屯営を焼いて去った。夏侯惇が諸軍をひきいて彼を追撃しようとすると、李典は、伏兵があるかもしれないので警戒するように進言した。夏侯惇はききいれず、于禁とともに劉備を追い、李典が留まって守備した。夏侯惇らははたして伏兵の中に入り込み、戦闘は不利だった。李典は救援にかけつけ、劉備は救援が来たのを望見して退却した。
つき従ってギョウを包囲した。ギョウが平定されると、楽進とともに壺関にいる高幹を包囲し、長広にいる管承を攻撃し、すべてそれらを打ち破った。捕虜将軍に昇進し、都亭侯にとりたてられた。
李典の同族配下の三千余家は乗氏に住んでいたが、魏郡に移住することを自発的に願い出た。みずから四方の征伐を制する目的であったので、曹操はこれを嘉し、破虜将軍に昇進させた。
張遼・楽進とともに合肥に駐屯したが、孫権が軍勢をひきいてそれを包囲した。張遼は命令を奉じ、城を出て戦おうと思った。三名はいずれも平素から仲がよくなかったので、張遼は二人が従わないことを懸念した。李典は憤然として、「これは国家の大事です。問題は君の計略がどうかということです。われわれは個人的恨みによって公の道義を忘れはしませぬ」そこで軍勢をひきつれ、張遼とともに孫権を打ち破り敗走させた。
その後、36歳の若さで死去した。享年不明。
李典は学問が好きで、儒学の教養を尊び、諸将と功績を争わなかった。すぐれた士大夫を尊敬し、謙虚そのものの態度をとったので、軍中では彼の長者ぶりを称えた。
『資治通鑑』卷64には巨鹿の人であると記述されている。
生没年を174年から209年とする書物があるが、史書や上記の略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは官渡の戦いや、合肥の戦いである。年齢から逆算して、記述から先の没年を採る事は不可能であり、誤りである。
小説『三国志演義』では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で三千の兵を引き連れて参加し仕えている。目立った活躍はないが呂布との戦いや華北4州を平定にも参加。
その後に曹仁の配下として樊城に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として新野に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である徐庶の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。
また207年に、夏侯惇の配下として于禁と共に新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている。
208年、曹操が荊州など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。長坂坡の戦いの最中、逃亡する劉備を追跡するが、長坂橋で仁王立ちしている張飛に撃退されている。再び曹操と共に長坂橋に行くと、今度は橋が焼き払われていたため、李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と進言した。曹操は李典の言葉を聞き入れ撤退している。
209年、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の太史慈を討ち取っている。