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姓名 | 陳羣 |
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字 | 長文 |
生没年 | ? - 235年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 靖侯 |
伝評 | 政治中枢で活躍し、人物鑑定に長け、魏帝国を尽力した重臣 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 曹叡 曹真 孔融 司馬懿 |
関連年表 |
194年 劉備の別駕となる 198年 曹操に仕え、司空西曹掾属となる 214年 御史中丞となる 220年 侍中・尚書令となる 九品官人法制定する 225年 鎮軍大将軍・中護軍となる 226年 司空となる |
陳羣、字を長文といい、潁川郡許昌県の人である。父は、陳紀、子は、陳泰がいる。
祖父の陳寔、父の陳紀、叔父の陳諶(シン)はいずれも名声が高かった。陳羣が子供のころ、陳寔はつねに特別の評価を下し、一族の長老たちに向かって、この子は必ずわが一族を盛んにするであろう、といっていた。
魯国の孔融はすぐれた才能をもち傲慢であった。年輩は陳紀と陳羣の中間であり、先に陳紀の友人となったが、のちに陳羣と知り合うと、あらためて陳羣の才能を祝って陳紀に対して挨拶した。このことから陳羣は有名になった。
劉備は豫州を支配すると、陳羣を召し出して別駕とした。そのとき陶謙が病死したので、徐州では劉備をあとがまとして迎えた。劉備が赴こうとすると、陳羣は劉備に進言して、東方に向かえば袁術と争い戦争となり、呂布が背後を襲えば徐州は手に入らない、と忠告した。
劉備は結局東へ行き、袁術と戦争になった。呂布ははたして下ヒを襲撃し、兵を派遣して袁術を援助し、大いに劉備の軍を打ち破った。劉備は陳羣の言葉を採用しなかったことを後悔した。茂才に推挙され、シャの令に任命されたが就任せず、陳紀について徐州に避難した。
たまたま呂布が敗北し、曹操は陳羣を召し出して司空西曹掾属とした。当時、楽安の王模と下ヒの周逵を推薦する者があり、曹操は彼らを召し出した。陳羣は封緘して命令書を返上し、王模と周逵は道徳をけがす人物であるから最後は必ず失敗するであろうと主張したが、曹操はききいれなかった。のちに王模・周逵はいずれも悪事を行なったかどで処刑され、曹操はそのため陳羣にあやまった。
陳羣は広陵の陳矯と丹陽の戴乾を推薦し、曹操は彼らをいずれも起用した。のちに呉がそむいたとき、戴乾は忠誠を全うして危機に殉じた。陳矯はけっきょく名臣となった。世間では陳羣を人物見分ける能力があると評価した。蕭・賛・長平の令に任命され、父がなくなって官を離れた。
のちに司徒掾の官にありながら、高成績で推挙され、治書侍御史となり、参丞相軍事に転任した。魏が建国されたのち、昇任して御史中丞となった。
当時、曹操は肉刑(身体に障害を与える刑罰)を復活することを論じ、命令して陳羣に返答させた。陳羣は、古代の刑罰をすべて採用せず、はなそぎ・足切り・足首を傷つける刑を先に施行して死刑の判決を受けている罪は減刑すべきだといった。これに鍾ヨウも賛成したが、王朗はじめ意見を述べた者の多くはまだ肉刑を実行すべきではないと主張した。曹操は鍾ヨウ・陳羣の言葉に深く賛意を表したが、軍事行動がまだ終わらないときとて、多数の意見を顧慮して、ひとまず沙汰やみとした。
陳羣は転任して侍中となり、丞相の東西の曹掾を配下に置いた。朝廷にあっては好悪によって判断することなく、つねに名誉と道義に依拠し、道義にはずれたことを人におしつけなかった。
曹丕は東宮にいるとき、深い敬意をもって彼を重んじ、友人に対する儀礼をもって処遇し、つねに感嘆した。曹丕は王位につくと、陳羣を昌武亭侯にとりたて、尚書に転任させた。九品官人法を制定したのは、陳羣の建議にかかる。
曹丕は帝位にのぼると、尚書僕射に昇任し、侍中の官を加えられ、尚書令に転じ、潁郷侯に爵位が進められた。
曹丕は孫権を征討して広陵まで行ったときに、陳羣に中領軍を兼任させた。曹丕は帰還するとき、節を与え、水軍を統率させた。許昌に帰ると、陳羣を鎮軍大将軍とし、中護軍を兼任させ、尚書の事務を取り扱わせた。
曹丕が病気に臥すと、陳羣は曹真・司馬懿らとともに遺詔を受けて政治を輔佐した。曹叡が即位すると、潁陰侯に昇進した。征東大将軍曹休・中軍大将軍曹真・撫軍大将軍司馬懿とともに、府を開設して属官を置けるようになった。
しばらくして司空となり、もとのとおり尚書の事務を取り扱った。
曹真は上奏文をたてまつって、数本の進路から蜀を討伐し、斜谷から侵入したいと希望した。陳羣は主張して進退に不自由で、損失が大きいといった。曹叡は陳羣に従った。曹真は再び上奏文をたてまつって子午道から進みたいと願った。陳羣はまたその不都合を論じ、あわせて軍事行動にかかる費用を計算して上申した。勅命によって陳羣の意見を曹真下げ渡した。曹真はその詔勅をたてに結局出発した。たまたま長雨が幾日も降り続いた。陳羣はまた勅命によって曹真に帰還させるべきだと主張し、曹叡はそれに従った。
曹叡は、宮殿を造営、労役に駆り出されて民衆は農耕の時期を奪われた。陳羣は上奏文をたてまつって、これを諌めた。曹叡はその結果、計画を縮小した点があった。
235年、逝去した。享年不明。
曹操時代、劉ヨクという人物の弟が魏諷と反逆をはかったことに連座し、その罪は死刑に該当した。陳羣は刑の減免を曹操に進言した。曹操は官位を復帰させた。劉ヨクは陳羣に深く感謝していたが、陳羣は、「刑罰について論じたのは国家のためであり、明君のご意向によるもので、わしが関知したことではない」といった。陳羣の度量の大きさ、おごらない性格はすべてこの類であった。
宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』によると、制定した九品官人法は、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられている。この制度は隋代までの中国における人材登用の基本制度となった。