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曹操と劉備の英雄論

魏伝


曹休 文烈そうきゅう ぶんれつ

姓名曹休
文烈
生没年? - 228年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号壮侯
伝評主に呉と争い攻防を繰り広げ、晩年の偽りの計略に欺かれて敗戦
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 
関連年表 218年 武都の戦い
220年 鎮南将軍・仮節となる
222年 孫権征伐
226年 大司馬となる
228年 石亭の戦い

略歴

曹休、字を文烈といい、沛国ショウ(ショウは[言偏]に[焦])の人である。曹操の血縁の無い族子である。子は、曹肇、曹纂らがいる。

天下が動乱に陥ると、一族の者たちはそれぞれちりぢりになって郷里から立ち去った。曹休は十数歳のとき、父を失ったが、一人の客人といっしょに亡骸をかついで、仮埋葬をすますと、年老いた母をつれて長江を渡って呉に行った。

曹操が義兵を起こしたために、姓名を変えて荊州までたどり着き、間道づたいに北方へ帰り、曹操に目通りした。曹操は側近の者たちに、「こやつは、わしの家の千里の駒じゃ」といい、曹丕と起居をともにさせ、わが子のように扱った。

いつも征伐のお供をさせ、虎豹騎をひきいさせて宿衛にあたらせた。

後に、劉備が、大将の呉蘭を派遣して下弁に駐屯させたとき、曹操は曹洪を征討に派遣し、曹休を騎都尉に任じて、曹洪の軍事に参与させた。曹操は曹休に向かって、「おまえは位は参軍だが、実際は指令官なのだぞ」といいきかせた。曹洪はこのいいつけを聞くと、またすべてを曹休にまかせた。

劉備は張飛を派遣して固山に駐屯させ、曹洪軍の後方を切断させようとした。呉蘭を討つか張飛に向かうか、衆論はためらったまま決定しかねていたが、曹休は、呉蘭が敗北すれば張飛もおのずと逃走すると主張した。曹洪はこの意見を採用して、軍を進めて呉蘭を襲撃し、大いにこれを撃ち破ると、はたして張飛は逃走した。

曹操は漢中を攻め落とし、諸軍が長安に帰還すると、曹休を中領軍に任命した。

曹丕は王位につくと、曹休を領軍将軍に任命し、前後にわたる功績をとりあげて、東陽亭侯に封じた。

夏侯惇が逝去すると、曹休を鎮南将軍・仮節・都督諸軍事に任命し、曹丕みずから任地に赴任する曹休を見送り、御車からわざわざ下り、曹休の手を握って送別した。

孫権が大将を派遣して歴陽に駐屯させたとき、曹休は出向いて、これを撃破した。また別に軍を派遣して長江を渡らせ、蕪湖にある数千軒の賊営を焼き討ちした。かくて征東将軍に昇進し、揚州刺史を領して、安陽郷侯に爵位が昇った。

曹丕は孫権征伐を行うにあたって、曹休を征東大将軍に任じ、軍権を示す黄金のまさかりを与え、張遼らおよび諸州郡の二十余軍を指揮させ、孫権の大将呂範らを洞浦において攻撃させ、これを打ち破った。かくて揚州牧に任命された。

曹叡が即位すると、長平侯に昇進した。呉の大将の審悳が皖に駐屯した際、曹休はこれを撃破し、審悳の首を斬ったので、呉の大将の韓綜、テキ丹らは相い前後して軍勢をひきいて、曹休のもとに降伏してきた。この功績により、大司馬に昇進した。

228年、曹叡は二つの街道から呉征討の軍を進発させた。司馬懿は漢水によって南下し、曹休は諸軍を指揮して尋陽に向かった。呉の周魴が偽りの降伏をしてきて、その策にひっかかり曹休は敵地深く入り込んでしまい、負け戦となって退却し石亭に宿営した。呉の夜襲をうけて、兵が突然驚き騒ぎ、大量の鎧、武器、輜重を放棄して逃走した。

曹休が上書して謝罪すると、曹叡は屯騎校尉の楊曁(ようき)を使者に立てて彼を慰撫し、儀礼・賜与は前以上であった。

曹休は、石亭の敗戦が原因で背中に悪性のできものができて逝去した。享年不明。


評価

曹休の祖父はかつて呉郡太守であった。曹休は太守の官舎で、壁にかかった祖父の肖像画をみると、長椅子から下りて拝礼し、涙を流した。同席していた者たちは、みな、感心し、ため息をついたのであった。

曹休は母を亡くしたとき、親孝行のかぎりをつくして哀悼した。曹丕は侍中をさしつかわして、服喪をきりあげさせ、酒を飲ませ肉を食べさせようとした。その詔勅をうけとった曹休は、ますます痩せおとろえた。曹休が故郷に帰って母を埋葬したいと願いでると、曹丕はまたも越騎校尉の薛喬に詔勅をもたせ、悲しみを抑えて、故郷に帰って葬儀をとり行い、一晩で埋葬をして、埋葬が終われば行在所に参上せよ、と命じた。葬儀のあと彼に会うと親しく慰めの言葉をかけてやった。彼が愛され重んじられていたことは、このようであった。


演義

小説『三国志演義』では、218年に金イらの謀反を王必らの知らせで、彼自身が反乱軍を鎮圧したことになっている。実際には王必と厳匡が兵を率いて鎮圧している。

222年の真夏に曹丕の呉遠征に従軍して、陸遜、呂範に大敗したことになっている。正史と同様に周魴の罠に嵌り、再び陸遜、徐盛の軍勢に敗れ、賈逵の加勢で洛陽に戻り、間もなく腫瘍に罹って病没している。