三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 116人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 11月の出来事
蜀漢滅亡

魏伝


曹真 子丹そうしん したん

姓名曹真
子丹
生没年? - 231年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号元侯
伝評総司令官として領土を防備し、将兵から人望が厚かった将軍
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 司馬懿 
関連年表 219年 漢中の戦い
222年 牛渚の戦い
226年 大将軍となる
228年 街亭の戦い
230年 大司馬となる

略歴

曹真、字を子丹といい、曹操の族子である。子は、曹爽、曹羲、曹訓、曹則、曹彦、曹皚がいる。曹真はもとの姓を秦氏といい、曹氏に養育されたのであった。

曹操が兵をあげたとき、曹真の父曹邵は徒党を募ったため、豫州刺史の黄エンに殺害された。曹操は曹真が幼くして孤児になったことを哀れみ、引きとって自分の息子たちといっしょに養い、曹丕と起居をともにさせた。

あるとき狩猟に出かけ、虎に追いかけられた。ふりかえって虎を射ると、虎は弦の響きに応じて倒れた。曹操は彼の勇猛さを壮とし、曹純亡きあと、曹休とともに虎豹騎を率いさせた。

曹真は、霊丘の賊を討って、これを攻め落とし、霊寿亭侯に封じられた。

偏将軍として軍兵をひきつれ下弁にいた劉備の別将を攻撃し、これを打ち破って、中堅将軍の官位を授与された。

曹操のお供をして長安まで行き、中領軍の官を受け持った。このとき、夏侯淵が陽平で戦死したため、曹操は憂慮を抱き、曹真を征蜀護軍とし、徐晃らを指揮させて、陽平にいた劉備の別将の高翔を撃破させた。

曹操はみずから漢中まで行き、諸軍を救い出し、曹真に武都まで行って曹洪らを迎え、引き返して陳倉に駐屯せよ、と命じた。

曹丕が王位につくと、曹真を鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事に任命し、前後にわたる功績をとりあげて、東郷侯に爵位をあげた。

張進らが酒泉で叛旗を起こしたとき、曹真は費曜を派遣してこれを打ち破らせ、張進らを斬り殺した。

222年、都に帰還したとき、曹真は上軍大将軍・都督中外諸軍事に任命され、軍権を示す節とまさかりを与えられた。夏侯尚らとともに孫権征伐を行い、牛渚の軍営を攻撃し、打ち破った。中軍大将軍に転任し、給事中の位を付与された。

226年、曹丕が病床に伏すと、曹真は陳羣、司馬懿らともに遺詔を受けて政治を輔佐することになった。曹叡が即位すると、邵陵侯に爵位があがり、大将軍に昇進した。

諸葛亮が祁山を包囲すると、南安・天水・安定の三郡が謀叛して、諸葛亮に呼応した。曹叡は曹真を派遣し諸軍を指揮させた。曹真は張コウを派遣して諸葛亮の大将の馬謖を攻撃させた。張コウが大いにこれを撃ち破ると、安定の住民楊条らが官民をつれ去って月支城に立て籠った。曹真は軍を進めてこれを包囲すると、楊条は降伏した。こうして三郡はことごとく平定された。

曹真は、諸葛亮が祁山の失敗に懲りて、今後は陳倉を通って出撃してくるにちがいないと考えたので、将軍のカク昭、王生を差し向けて陳倉を守備させ、その城壁を修築させた。

230年、洛陽に参内して、大司馬に昇進し、剣をたばさみ靴をはいたまま上殿し、参内した場合、小走りに走らないでもよいという特別待遇を賜った。

曹真が西方討伐に出発するにあたって、曹叡はみずから見送った。曹真は八月に長安を出発し、子午道から南へ入った。司馬懿は漢水をさかのぼり、南鄭で合流する手はずになっていた。諸軍のうち、ある部隊は斜谷道から、またある部隊は武威から侵入した。おりしも、長雨が三十日以上も降り続き、桟道のうち断絶してしまうものもでてきたので、曹真に詔勅を下し、軍を引き上げさせた。

曹真が病気で洛陽に帰還すると、曹叡はみずから彼の屋敷に行幸し、病気を見舞った。そのまま曹真は逝去した。享年不明。


評価

曹真は若いころから、一族の曹遵、同郷人の朱讃といっしょに曹操に仕えていた。しかし、曹遵と朱讃が若死したために、曹真は彼らを悼み、自分の領地を分けて、曹遵と朱讃の息子に与えてほしいと願い出た。

また、曹真は遠征するといつも将兵と苦労をともにし、軍への賞賜で足りない場合には、つねに自分の財産の中から分かち与えたので、兵士たちは、みな彼の役にたちたいと心から願った。

呉質別伝によると、曹真は相当に肥満だったため、魏臣の呉質から酒宴でそのことをからかわれて激怒したという逸話が残っている。

清朝の道光年間(1821年 - 1850年)、陝西省西安の郊外で、曹真の業績を称えた石碑が発掘された。石碑は曹真の死亡から数年後の235年 - 236年の頃の建立と推定され、内容は一部しか残っていないものの、蜀漢の諸葛亮が攻めて来たのを曹真が迎撃したというものである。文章の書体(魏代の隷書)も書道史的に高い価値を持つ。なお、文中の「蜀」と「諸葛亮」の間の文字が削られているが、これは3世紀の建立時には魏の立場から「蜀賊諸葛亮」とあったのを、発掘後に『三国志演義』の諸葛孔明の大活躍を愛する地元民によって、「賊」の字が削り取られたものである。


演義

小説『三国志演義』における曹真は、宗室出身として曹叡を支える重臣の一人とされている。蜀の諸葛亮の離間工作によって群臣の多くが司馬懿を疑った時、「蜀か呉の計略ではないか」と一人彼を弁護したり、病気療養中に呉蜀が連合して魏に侵攻してきたという知らせを聞くや、自ら進んで都督の印綬を司馬懿に譲り、彼に全権を委ねるなど、基本的に公正で良識ある人物として描かれている。

その一方で、司馬懿を諸葛亮と伯仲させるため、史実では曹真が諸葛亮を防いだ功績は、『演義』では一貫して司馬懿の功績とされ、曹真はその引立て役に回されている。諸葛亮と対戦し、圧倒的に優れたその知略の前に連戦連敗を喫してしまう。腹心の王双を魏延に斬られ、同僚の司馬懿との賭けに負け、彼我の能力の差に愕然とする。決して暗愚ではなく、人の意見を聞き入れる度量のある人物なのだが、なまじ聡明で諸葛亮や司馬懿と自らの力量の差がわかるため心中苦しみ続け、そのことが原因で病にかかってしまう。最後は諸葛亮の罵言を記した書状を読み、憤死してしまう。