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姓名 | 夏侯尚 |
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字 | 伯仁 |
生没年 | ? - 225年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 悼侯 |
伝評 | 知勇兼備の将だが、愛妾を絞殺され、精神を患って早世した人物 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 曹真 |
関連年表 |
208年 軍司馬となる 216年 黄門侍郎となる 219年 代郡の蛮族平定 220年 征南大将軍となる 222年 江陵の戦い 224年 昌陵郷侯となる |
夏侯尚、字を伯仁といい、曹操や夏侯淵の従子である。子は、夏侯玄、司馬師の妻の夏侯徽がいる。演義では、兄に夏侯徳がいる。
曹操が冀州を平定したとき、夏侯尚は軍司馬になり、騎兵をひきいて征伐のお供をした。後年、五官将の曹丕の文学になった。
魏国が建立されるや、魏の黄門侍郎に栄転した。
代郡の蛮族が反乱をおこしたとき、曹操は曹彰を派遣してこれを征討させ、夏侯尚を曹彰の参軍事に任命し、征討軍は代地を平定して帰還した。
曹操が洛陽で崩御したとき、夏侯尚は節を手に、曹操の柩を奉じてギョウに帰還した。前後にわたる功績をあわせてとりあげられ、平陵亭侯にとりたてられ、散騎常侍に任命され、ついで中領軍に昇進した。
曹丕は皇帝に即位すると、あらためて夏侯尚を平陵郷侯に封じ、征南将軍に栄転させ、荊州刺史・仮節都督南方諸軍事の職務を受け持たせた。夏侯尚は、劉備の別働隊がいる上庸に対して、奇襲攻撃を進言した。かくして諸軍を指揮して上庸を撃破し、三郡(上庸・西城・房陵)と九県を平定して、征南大将軍に昇進した。
孫権は、魏王朝の諸侯と称していたにもかかわらず、夏侯尚は前以上に討伐の準備を怠らなかった。孫権は後にはたして二股をかけるようになった。
222年、曹丕は宛に行幸し、夏侯尚に諸軍を統率させ、曹真と力をあわせて江陵を包囲させた。孫権の大将の諸葛瑾は夏侯尚の軍勢と長江をはさんで対峙した。諸葛瑾は、長江の中流の中洲に渡り、水軍を別に江中に待機させた。夏侯尚は夜中、多数の油船を持ち運びつつ、歩兵・騎兵一万余をひきいて、こっそりと下流から長江を渡り、諸葛瑾の軍を攻撃し、敵の船に火をかけると、水陸両軍一斉に攻め立て、これを打ち破った。
江陵城の朱桓は固守して、陥落させる前に、たまたま疫病が大流行したため、夏侯尚に詔勅を下し、諸軍を引き上げ帰還させた。功績があって荊州牧に昇進した。
荊州は荒廃して、外側は蛮族と接しているうえ、呉とは漢水を国境にして隣接しているため、もとの住民の多くは江南に移住してしまった。夏侯尚が、上庸から道路を通じ、西方へ向かって七百里以上も軍を進めた結果、住民や蛮民から服従する者が多くあらわれ、五、六年のうちに数千家も帰順した。
224年、昌陵郷侯に改封された。夏侯尚にはお気に入りの愛妾がいて、正妻より愛を注いでいた。正妻というのが曹氏一族の娘(曹真の妹)であったため、曹丕は人をやってその妾を絞殺させた。夏侯尚は悲嘆にくれ、病気になって頭がぼけてしまい、愛妾を埋葬したのち思慕の念をおさえきれず、もう一度墓から掘り出して顔を見る、というありさまだった。曹丕はそれを聞いて腹を立てた。しかし、曹操以来の重臣であったため、恩寵が薄れることはなかった。
225年、夏侯尚は重体となって、都に帰還し、そのまま逝去した。享年不明。
夏侯尚は計略・智謀に優れていたため、曹丕は彼を評価し、社会的身分を越えたつきあいをした。
小説『三国志演義』では、定軍山において黄忠と戦って敗れて捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時で彼は背後に黄忠から射撃され背中に重傷を負う。また兄として夏侯徳が登場している。