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姓名 | 涼茂 |
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字 | 伯方 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 優秀な実績をあげて、多くの民が慕っていた政治家 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 |
関連年表 |
211年 長史・左軍師となる 213年 尚書僕射・中尉・奉常となる 217年 太子太傅となる |
涼茂、字を伯方といい、山陽郡昌邑県の人である。
若いころ、学問が好きで、議論の場合、いつも経典を根拠とし、それによって価値判断を下した。
曹操に招かれて司空の掾となり、優秀な成績で推挙され、侍御史を授けられた。当時、泰山には盗賊がたくさんいたが、涼茂を泰山の太守に任命すると、十ヶ月の間は、幼児を背負って(襁[むつき])やって来た者が千家以上もあった。
楽浪太守に転任したが、遼東に居た公孫度は勝手に涼茂を引き留め、任地に行かせなかった。しかし、涼茂はあくまでも屈服しなかった。公孫度は涼茂と将軍たちに対して、「曹公が遠征に出、ギョウは防備がないそうだ。今、わしは歩兵三万、騎兵一万でもって、一気にギョウへ向かいたい。誰がそれをふせげようぞ」将軍たちは皆、「そのとおりです」といった。
また振り返って涼茂に対して、「君の意見ではどうかね」といった。涼茂は答えて、「近頃、四海の内は大いに乱れ、国家は今にも傾こうとしております。将軍は十万の軍勢をかかえ、じっと座ったまま、成功失敗を観望しておられます。そもそも人の臣下である者が、まったくこんなことでいいのでしょうか。それに対し曹公は国家の危機敗亡を憂え、人民の激しい苦しみをあわれみ、正義の兵をひきいて、天下のためにむごい賊どもを処罰されております。功績は高く、恩徳は広く、無二のお方というべきです。四海の内は安定したばかりで、人民はやっと落ち着きなごんだところです。ですからまだ将軍の罪をとがめないだけなのです。ところが、将軍のほうは戦争だといわれて西へ向かう気でおられます。そうなれば、存亡の結果は、朝にならないうちに決定されるでしょう。将軍よ、さあがんばってください」将軍たちは涼茂の言葉を聞いて震えおののいた。ややしばらくして、公孫度は、「涼茂の発言は正しい」といった。
その後、朝廷より召されて魏郡の太守、甘陵国の相と転任し、行く先々で業績をあげた。
曹丕が五官中郎将となると、涼茂は選抜されて長史となった。左軍師に転任した。
魏建国の当初、尚書僕射に昇進し、その後、中尉・奉常となった。曹丕が太子のとき、涼茂はまた太子太傅となり、大いに敬意と礼遇を受けた。
涼茂は在職中に亡くなった。享年不明。
『英雄記』によると、涼茂の名は曹丕の八人の友人「八友」の中に入っている。
裴松之の考察によると、「公孫度は曹操が遠征して、ギョウに防備がないと聞いたとある。とすると、曹操がギョウを平定したあとのことである。『公孫度伝』を考察すると、公孫度は204年に亡くなっている。曹操もこの年にギョウを平定している。それ以降の遠征には、柳城に北征したことがあるだけだ。柳城を征伐した年には、公孫度は既にもう生存しなかった」と指摘している。
『博物記』によると、「襁」(むつき)とは、糸を織ってそれを作る。広さ八寸、長さ一尺二寸。それで幼児を背中の上にくくりつけ、背負って道を歩く。