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蜀漢滅亡

魏伝


張範 公儀ちょうはん こうぎ

姓名張範
公儀
生没年? - 212年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評曹操、曹丕に礼を尽くされ、尊敬によって留守を預かった政治家
主な関連人物 曹操 曹丕 
関連年表 202年 諫議大夫となる
208年 議郎・参丞相軍事となる

略歴

張範、字を公儀といい、河内郡修武県の人である。父は漢の大尉張延、弟は張承、張昭(呉の張昭とは別人)、子は張陵、張参がいる。

太傅の袁隗は娘を張範にめあわせたいと思ったが、張範は辞退して受けなかった。落ち着いた静かな性格で、老荘の教えを楽しみ、栄利に無関心で、政府からの召し出しにも就任することがなかった。

弟の張承は、やはり名を知られた人物で、方正として召し出され、議郎に任命され、都尉にかわった。董卓が騒乱を起こすと、張承は徒党を集めて天下の人々と協力して董卓を攻め滅ぼそう図った。張承の弟の張昭は当時議郎であったが、ちょうど長安からやってきて、張承に向かって、今董卓を攻め滅ぼす時期でなく、董卓の人心離れたあと帰順した者を選んで待ってから行動するように進言した。そこで官を辞任してこっそりと故郷へ帰り、張範といっしょに揚州へ避難した。

揚州の袁術は充分な礼をとって招請した。張範は病気と称して行かず、袁術もむりに服従させなかった。張範は張承をやって挨拶させた。袁術は質問して、「昔、周の王室が衰微したときには、斉の桓公、晋の文公の覇業があった。秦がその政治に失敗したとき、漢が後をうけて政権を握った。今、私は領地の広さ、士卒民衆の多さを利用して、斉の桓公と同じ幸運を求め、漢の高祖の事跡をまねたいと思うが、どうだろう」といった。張承は答えた、「徳義が問題なので、強さが問題なのではありません。そもそもよく徳をはたらかせ、天下の要求に同調しますならば、一平民の状態から出発したしましても、天下支配の功業をうち立てるのは困難ではありません。もしかりに分不相応なまねをされ、時勢に逆らって行動し、民衆にそっぽを向かれましたならば、誰が功業をうち立てることができましょう」袁術は不機嫌だった。

その当時、曹操は冀州を征討しようとしていた。袁術はさらにたずねて、「今、曹公は疲弊した兵卒数千をもって、十万の軍勢に敵対するつもりでいる。力量を考えないというものだ。君はどう思うかね」張承は、「漢の徳は衰えたとは申しましても、天命はまだ改まっておりません。今、曹公は天子をかかえて、天下に号令しています。百万の軍勢に敵対したとしましても、だいじょうぶでしょう」袁術は顔色を変え、不愉快そうだった。張承は彼のもとを辞去した。

曹操は冀州を平定すると、使者を派遣して張範を迎えた。張範は病気のため彭城に滞留し、張承を曹操のもとに行かせた。曹操は上奏して諫議大夫とした。

張範の子の張陵と張承の子の張センが、山東の賊軍に捕らえられた。張範はすぐさま賊軍のもとへ、二人の子をもらいうけにいった。賊は張陵を張範に返した。張範は感謝して、「君たちが、わが子を返してくれたことは、かたじけない。だいたい、人情ではわが子がかわいいとはいえ、わしは張センの幼さを不憫に思う。どうか陵と彼をとりかえてもらいたい」賊はその言葉の義気に感じて、二人とも張範に返した。

曹操が荊州から帰還するとき、張範は陣中にて目通りできた。議郎・参丞相軍事に任命され、ひじょうに尊敬され重んじられた。

曹操は征伐に出るとき、いつも張範と邴原を都にとめ置き、曹丕とともに留守を預からせた。曹操は曹丕に向かって、「行動は必ずこの二人に相談せよ」といった。曹丕は子や孫としての礼をとった。

212年、張範は死去した。享年不明。


評価

張範は窮乏者を助け恵み、家に余財を残すことがなかった。都の内外のみなしご、やもめはみな彼を頼った。贈り物をはねつけることをしなかったが、全然使おうともしなかった。離れる時になると、すべてそれらを返した。


演義

小説『三国志演義』には一切登場しない人物である。