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魏伝


賈逵 梁道かき りょうどう

姓名賈逵
梁道
生没年174年 - 228年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号粛候
伝評文武の才能を持ち、知略と政治にも精通した人物
主な関連人物 曹操 曹休 楊修 王凌 
関連年表 214年 丞相主簿となる
218年 諌議大夫となる
220年 魏郡太守となる
222年 丞相主簿酒となる
225年 権威将軍となる

略歴

賈逵は字を梁道といい、河東郡の襄陵県の人である。子は賈充、賈混、孫は賈南風がいる。

子供の時分からいつも部隊の編成をして遊んでいた。祖父の賈習はそれを特別視して、「おまえは大きくなれば指揮官となるにちがいない」といい、数万字におよぶ兵法を直接伝授した。

最初郡の役人となり、絳邑の長を代行した。

郭援が河東を攻撃したとき、彼の通り道に当たる城や邑はすべて降伏したが、賈逵を固守した。郭援は彼を攻撃したが陥落しないので、匈奴の単于を呼び、両軍をあわせて激しく彼を攻撃した。城は今にもつぶれようとした。

絳の住民がちりぢりになったあと、郭援は賈逵の名声を聞いていたので、将軍にしたいと思い、武器をつきつけて彼を脅迫したが、賈逵はびくともしなかった。側近の者が賈逵を引っ張って叩頭させると、賈逵は彼らをどなりつけた、「国家の高官が賊に対して叩頭するなどどこにある。」郭援は腹を立てて彼を斬ろうとした。絳の官吏・住民は賈逵を殺そうとしていると聞くや、皆城壁の上に登ってどなった、「約束にそむいてわが賢君を殺すならば、いっそいっしょに死ぬぞ。」側近の者は賈逵をりっぱだと思い、彼のために請願する者が多かった。かくて助かった。

そのまえ賈逵は皮氏を通り過ぎたとき、「領地を争う場合、先に占拠した者が勝つ」といった。包囲が旧迫してくると、逃げられないと悟ったので、人をやって間道伝いに郡まで官印と紐を送らせ、そのうえ、「急いで皮氏を占拠せよ」といった。郭援は絳の軍勢をあわせたのち、兵を進めようとした。賈逵は彼が先に皮氏を獲得することを心配した。そこで別の計略によって郭援の謀士祝奥を迷わせた。郭援はそのために七日間引きとめられた。郡は賈逵の言葉に従ったおかげで、敗北しないですんだ。

『魏略』にいう。郭援は賈逵を捕虜にしたが、賈逵は拝伏することを承知せず、郭援に向かっていった、「王府君が郡を治められて何年もたっているのだ。おまえさんはいった何をしようというのか。」郭援は腹を立て、「すぐにやつを斬れ」といった。将軍たちがかばったので壺関につなぎ穴ぐらの中に閉じこめ、車輪を上にかぶせ、人にじっと見張らせた。今にも彼を殺すつもりだった。賈逵は穴ぐらの中から見張りの者に向かっていった、「このあたりにはますらおはいないのか。正しい人間をこの中で死なせてよいのか。」そのとき、祝公道という者がおり、賈逵とは知り合いではなかったが、ちょうどその言葉を聞き、彼が正義を守って危険にさらされていることを気の毒に思った。そこで夜盗賊になって出かけ、引き上げてやり、かせをたたきこわして去らせたが、自分の姓名を言わなかった。

郭援が敗れたのち、賈逵はやっと先に自分を出してくれたのが祝公道であったとわかった。祝公道は河南の人である。のちに別の事件に連座して方の裁きに服さなければならなくなった。賈逵は彼を救おうとしたが、賈逵の力では解決できなかった。彼のために服喪に着替えた。

のちに茂才に推挙され、澠池の令に任命された。

高幹が反逆すると、張琰は挙兵して彼に呼応しようとした。賈逵はその計画を知らずに出かけて行き張琰と会った。事変が起こったと聞くと帰ろうとしたが、とらえられるのが心配だった。そこで同じ計画を抱いているように見せかけ、張琰のために策略を立ててやった。張琰は彼を信用した。

当時、県の蠡城に行政府を寄留させていたが、城壁も壕も固くなかった。賈逵は城壁を修理するため張琰に兵を求めた。反乱を起こそうとしている連中は皆その計画を隠さなかったので、賈逵は全部処刑することができた。かくて城を修理して張琰に抵抗した。張琰が敗北すると、賈逵は祖父を失ったことを理由に官を去った。

司徒に召し出されて椽となり、議郎の役にあって司隷の軍事に参加した。

曹操は馬超を討伐したとき、弘農まで来て、「ここは西方への街道の要所だ」といい、賈逵に弘農の太守を代行させた。召し寄せて会見し事態を相談し、たいそう彼が気に入り、側近に向かっていった、「天下の二千石が全部賈逵のようであったなら、わしは何を心配しよう。」

そののち兵を微発したとき、賈逵は屯田都尉が逃亡民をかくまっているのではないかと疑念を抱いた。都尉は郡に所属しないため不遜な言葉を吐いた。賈逵は怒って彼を逮捕し、罪があると責めたて、脚をたたき折った。そのかどで免職になった。しかしながら曹操はは心中賈逵をよしとし、丞相主簿にとりたてた。

曹操は劉備を征伐したとき、先に賈逵を斜谷までやって状勢を観察させた。道中、水衡都尉が囚人数十人を車に載せて来るのに出会った。賈逵は軍事状勢のきびしいおりとて、すぐさま重罪の者一人を別にしてその他の者全員を釈放した。曹操はそれを嘉し、諌議大夫に任命し、夏侯尚とともに軍事上の計略をつかさどられた。

曹操は呉を征討したいと思ったが、たいそうな長雨で、軍中には行くことを希望しない者が多かった。曹操はそんな状態を知って、外から諌めに来る者があることを懸念した。命令を下し、「今、わしは戦争の準備を命じてあるがまだ相手をきめているわけではない。諌める者があれば死刑に処す。」賈逵は命令を受けると、同僚の楊修、王凌ら三主簿に向かっていった、「今、全く出陣してはならないのに、命令はこのとおりだ。諫めないわけにはいかぬ。」そこで諫言の草稿を書いて三人に示した。三人はしかたなく皆署名し、参内してその事を具申した。曹操は腹を立て賈逵らを逮捕した。獄に送るに当たって発案者を取り調べた。

賈逵は即座に、「私が発案しました」といい、そのまま走って獄に行った。獄吏に向かっていった、「早くわしにかせをつけてくれ。偉いかたは、まずはわしが側近の職にいるから、卿に目こぼしを求めているとお疑いになる。今にわしの様子を見に人をよこされるぞ。」賈逵がちょうどかせをつけおわると、曹操ははたして家中の者を獄までよこし、賈逵の様子をしらべさせた。やがて命令して、「賈逵には悪意がない。その官職に復帰させる」と述べた。

曹操が洛陽において崩御すると、賈逵は葬儀をとりしきった。そのとき、鄢陵侯の曹彰は謁騎将軍の事務取扱いであったが、長安から駆けつけ、賈逵に先王の璽綬のありかを訊ねた。賈逵はきっとなっていった、「曹丕さまは鄴におわし、国には世継ぎの君がございます。先王さまの璽綬は、君候の質問すべきことではありません。」かくて柩を奉じて鄴に帰った。

当時、曹丕は鄴におり、鄢陵侯はまだ到着していなかった。兵士や人民は労役にたいそう苦しんだうえに疫病がはやった。そのため軍中は騒然となった。官僚たちは、天下に変事が起こることを心配して、喪を発表しないように願った。賈逵は建言して秘密にするべきでないと主張した。そこで死去の旨を発表し、内外の人に皆参内して告別させた。告別がすむと各人平静にしてうごきまわってはならぬと命じた。ところが青州の軍はかってに太鼓を鳴らして引き上げていった。人々はそれを禁止し、従わなければ彼らを討伐すべきだと考えた。賈逵は、「現在、魏王の遺体は柩にあり、後継の王はまだ立てれていない。この機会に彼らをいたわるのがよろしい」と主張した。そこで長文の布令文を作って、通り道のどこでも官米を支給するように布告した。

鄴県の民家数万戸は首都圏にありながら不法行為をはたらく者が多かったため、曹丕は王位につくと、賈逵を鄴の令とし、ひと月余りして魏郡の太守に昇任させた。

大軍が征討に出ると、またも丞相主簿酒に任命した。

賈逵は以前他人に連座して罪を受けたことがあった。曹操はいった、「叔向は十代のちの子孫までも罪を赦されるとされたものだ。まして賈逵の功業徳業は自分自身のものなのだから。」つき従って黎陽の津まで来ると、渡る者が列を乱した。賈逵が彼らを斬りすてたのでやっと整えた。

譙まで来て、賈逵は豫州の刺史に任命された。

この当時、天下は回復したばかりで、州や郡では行政がゆきわたらないことが多かった。賈逵は意見を述べた、「州は本来御史が巡業して諸郡を監督したもので、六個条の詔書によって郡の高官や二千石以下の官吏を取り締まりました。したがってその特徴を述べる場合にはすべて厳格・有能・勇武にして監督の才があると申し、平静・寛大・仁愛にして柔和な徳があるとは申しません。現在、高官は法律をないがしろにし、盗賊が公然と横行しておりますが、州では承知していながら糾明いたしません。天下はいったいどうやって正しさをとりもどすのですか。」兵曹従事が前の刺史から休暇をとっていて、賈逵が着任してから数ヶ月してやっと帰ってきた。州の二千石以下の官吏のうち阿諛追従して法律にあわない者をことごとく調べ、すべて挙げたて免職するよう上申した。

曹丕は、「賈逵はまことの刺史だ」といい、天下に布告して豫州のやり方を見習わせた。関内候の爵位を賜わった。

『魏略』にいう。それより以前、魏郡の官吏たちは公的な事で参集する場合、ずいぶん期限をうるさくいわれた。ちょうど賈逵が郡を治めることになると聞いて、役所をあげて皆県役所の門の外まで来た。昇任の文章が到着したので、賈逵が門を出ると、郡の官吏たちは全員門の前におり、車の側で賈逵に挨拶した。賈逵は手をうっていた、「役所に行ったときも、なんとかこんな風であればよいが。」

『魏略』にいう。賈逵は豫州の刺史になった。賈逵は進み出て述べた。「臣は宮門をお守りし、六年間出入りしました。宮門が始めて開かれると臣は外におこることになりました。どうか殿下には万民のためにご配慮くださり、天と人の期待をうらぎらないでください。」

州の南は呉と境を接していた。賈逵ははっきりと敵状視察をさせ、武器を修理し、守備戦闘両面の備えをしたので、賊は思いきって侵犯して来なかった。外は軍隊を整え、内は民政につとめ、鄢水・汝水をさえぎって新しい堤を作った。

また山を断ちきって長い谷川の水をため小弋陽陂を作った。また二百余里にわたって運河を通した。賈侯渠といわれるものである。

黄初年間、他の将軍たちとともに呉を征討し、洞浦において呂範を破り、陽里亭候に昇進し、権威将軍の称号を付加された。

曹叡が即位すると、二百戸を加増され、前とあわせて四百戸となった。

当時、孫権は東関にいたが、それは豫州の南方に当たり、長江から四百余里離れていた。兵を出して侵入してくる場合はいつも西方は江夏から、東方は廬江からだった。国家が征伐する場合にも淮水・ベン水を通った。この当時、豫州の軍は項におり、汝南・弋陽の諸郡は国境を守備しているだけだった。孫権は北方に懸念がなかったので、東方と西方に危急な状態があるときは、軍をあわせて救援しあった。だから敗北することがつねに少なかったのである。賈逵は長江まで直通の道を開設するべきだと主張した。それは、もし孫権が自分で守れば東西両方面に救援を送れなくなり、もしそうなれば東関は取ることができると判断したからである。そこで駐屯地を潦口に移し、攻め取る計略を上申した。曹叡はそれを嘉した。

呉の将軍張嬰と王崇が軍勢をひきつれて降伏した。

228年、曹叡は賈逵に前将軍満寵・東莞の太守胡質ら四軍を監督させ、西陽からまっすぐに東関に向かわせ、曹休には皖から、司馬懿には江陵から進ませた。

賈逵が五将山まで来たとき、曹休は賊のうち降伏を願う者があると上奏し、敵地深く侵入してそれに呼応することを求めた。司馬懿は軍をとめ、賈逵には東方に向かい曹休と合体して進むようにと詔勅が下った。賈逵は賊が東関の守備をおかず必ず皖に軍を終結させる、曹休が奥深く侵入して賊と戦えば必ず敗北すると判断した。

そこで諸将に部将をわりあて、水陸両面から同時に進軍した。行軍二百里、生けどりにした賊兵が、曹休が戦闘に敗れ、孫権は兵を派遣して夾石をさえぎったと語った。諸将はどうしてよいかわからず、後援の軍を待ちたいと望む者もいた。

賈逵はいった、「曹休の兵が外に敗れ、都への道路は断たれている。進んでも戦うことができず、退いても帰ることができない。安危のきっかけは一日が終わらぬうちに訪れる。賊は後続の軍がないのをみてとったからここまで来たのだと。今、急いで進軍し、やつらの不意をつこう。これこそ『人の先手をうつことによってその心を奪う』といわれることである。賊はわが兵を見て必ず逃走する。もし後援の軍を待てば、賊はすでに難所をさえぎっているのだから、兵数が多くてもなんの役に立とう。」

そこで普通の倍の速度で軍を進め、旗指物と陳太鼓をたくさん設けて見せかけの兵とした。賊は賈逵の軍を見て退却してしまった。賈逵は夾石を占拠し兵と食糧を曹休に提供し、曹休の軍はやっと勢いをもりかえした。

たまたま病気にかかって危篤となり、側近に対していった、「国の厚きご恩を受けながら、孫権を斬って地下で先帝にお目通りできないのが残念じゃ。葬式のために新しく作ったりなおしたりすることは一切ならぬ。」逝去し、粛候とおくりなされた。享年55。


評価

『魏略』にいう。賈逵の家は代々名家であったが、若いころ親をなくし家は貧しく、冬にはつねに袴もなかった。妻の兄の柳孚を訪れて泊まったが、その翌朝がまんできず柳孚の袴をつけて去った。そのため当時の人は彼を頑健そのものだとうわさしあった。

『孫資別伝』にいう。孫資は河東の計吏に推挙され許に行ったが、丞相の役所に推薦して述べた、「賈逵は絳邑におりまして、官吏・人民を督励し、賊郭援と戦闘を交えました。力尽きて敗北し、賊の捕らえられましたが、正しい意志をもってすくっと立ち、顔つきも言葉も屈服の様子を示しませんでした。忠義の言葉は大衆に聞こえわたり、はげしい節義は当世に顕著であります。古代の、髪を逆立てた者や鼎によりかかった者であってもこれ以上ではありますまい。彼の才能は文武を兼ね具えており、まことに現在の有用な人間です。」

賈逵が亡くなると、豫州の官吏と人民は彼を追慕し、彼のために石に文字を刻み祠を立てた。

青龍年間(233〜237年)、曹叡は東征したおり、みくるまに乗って賈逵の祠に入った。詔勅にいう、「昨日、項を訪れ、賈逵の石碑と像を見た。それを思い出すと悲しみがこみあげてくる。昔の人はいっておる。名声の立たないことが気がかりで、寿命が長くないことは気にしない、と。賈逵は生存中は忠誠を抱き勲功をあげ、死んでからは慕われている。死んでも不朽といえる人物である。よって天下にあまねく知らせ、将来への奨励とせよ。」

『魏略』にいう。甘露二年(257年)、みくるまは東征し、項にとまったが、ふたたび賈逵の祠のあたりに入った。詔勅にいう、「賈逵は死んでも、彼への愛情は残っており、代々祭られている。りっぱな風格を追聞し、朕ははなはだこれを嘉する。昔、先帝は東征されたみぎり、やはりここに行幸され、おんみずからめぐみのお言葉を発せられ、賈逵のりっぱさを称揚された。徘徊する心はますます悲しみにあふれる。そもそも賢人に礼を尽くす方法は、ある場合はその憤墓を清掃し、ある場合はその里門を飾る。敬意を高めるためである。よって祠堂を清掃し、穴があき雨もりの箇所があれば、それを修理させよ。」

陳寿の評にいう。漢末より以来、刺史が諸郡を統括し、都の外にあって行政を施した。先の時代にただ監督するだけだったのと同じではない。曹操が国家の基礎をつくってから魏の帝業が終わるまでの期間において、右の人々が評判をたてられ、名実ともに具わっていた。仕事の機微に通達し、威厳と恩恵がともにあらわれた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。


逸話

かつて賈逵は学生であったとき、ざっと根本精神をつかみ、そのうちの用うべき点が摂取した。『春愁左氏伝』をもっとも好み、太守となってからも、つねに自分から日課としてこれを読み、月に一度のわりで読み終えるのが例だった。賈逵は以前弘農にいたとき、典農校尉と公的な事で争ったが、うまく始末がつかなかった。そこで怒りのあまりこぶができた。のちに病気の箇所は次第に大きくなったので、医者にそれを手術してもらいたいと上申した。曹操は賈逵の忠誠を愛惜し、彼が死ぬことを心配して、「主簿にはすまぬが、わしは『十人こぶを手術すれば九人は死ぬ』と聞いておる」とさとした。賈逵はそれでも自分の思いどおりにしたが、こぶはますます大きくなった。

賈逵の本名は衢といったが、のちに改めて逵としたのである。

以前、賈逵と曹休は仲が悪かった。黄初年間、曹丕は賈逵に節を与えるつもりだったが、曹休はいった、「賈逵は剛毅な性格で平素将軍たちをあなどり軽んじております。都督としてはいけません。」曹丕はそこでとりやめた。夾石の敗戦において、賈逵がいなければ、曹休の軍はほとんど助からなかったのである。

『魏略』にいう。曹休は賈逵の進軍が遅かったことを怨み、賈逵を叱責し、そのあげく、係の者をやって豫州の刺史は棄てて来た武器類を拾いに行けと命じた。賈逵は心の正しさをたのんで曹休に向かっていった、「もともと国家のために豫州の刺史となっているのですぞ。棄てて来た武器類を拾ってやるために来たのではありません。」そこで軍を引きあげ帰還した。かくて曹休と互いに上奏しあった。朝廷では賈逵が正しいことを承知していたけれども、曹休が皇族としての重責をになっていることを考慮して、どちらに対しても責めることをしなかった。

『魏書』にいう。曹休はなお以前の気持を抱いていて、期日におくれたかどで賈逵を罪に陥れようとしたが、賈逵はまったく沈黙していた。当時の人はこのことからますます賈逵をりっぱだと思った。

習鑿歯はいう。そもそも賢人というのは、自分を絶対視せず、こだわりを捨て、心から人にへりくだるもので、人を嫌悪するという評判が生まれる余地はないものだ。嫌悪するという評判が立つのは、必ず人と対抗し、わが身に勝ち負けのこだわりを存するからである。もしその個人的怨みをもって国を破滅し民をそこなったならば、相手がひっくりかえったとしても、自分にとってなんの利益になろう。自分にとってかりにも利益がなければ、それにつけこんでも何になるのだ。このことをもって快哉を叫ぶのは奴婢の心だけである。今、その個人的怒りを抑えて相手のなやみを救い、困難を犯して危険をのりこえて相手を災難から免れさせた。功績は明君にはっきりと示され、恩恵は人民に施され、身は君子の道に登り、道義は敵の心をはずかしめるとなれば、やまいぬや虎であってもなお報復することを忘れるであろう。まして曹休にたいしてならなおさらである。とすれば、相手の危険を救うのは自分の勝ちを成就する手段であり、旧来の怨みを考慮しないのは相手の心を屈服する手段である。公的な道義がすでに成り立ち、個人的利益もまた大きい。争いのしかたを知っているからといってよい。勝ちを忘れることができない連中にあっては、この方法をとらないから、勝つことが皆無なのである。