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蜀漢滅亡

魏伝


孫礼 徳達そんれい とくたつ

姓名孫礼
徳達
生没年? - 250年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号景候
伝評誠実にして正直で、剛毅果断だった人物
主な関連人物 曹叡 曹休 曹爽 
関連年表 208年 司空軍謀椽となる
239年 大将軍長史・散騎常侍となる
249年 司隷校尉となる
250年 司空となる

略歴

孫礼、字を徳達といい、涿郡容城県の人である。孫は孫元がいる。

曹操は幽州を平定すると、召し出して司空軍謀椽にとりたてた。

そのむかし動乱の時代に、孫礼の母が行方不明になった。同郡の馬台が孫礼の母を探しあてた。孫礼は家財を全部馬台に譲与した。

馬台はのちの法にひっかかってその罪は死刑に該当した。孫礼はひそかに手引きして牢獄をのりこえさせてから自首した。あとから「臣には逃亡する道理はございません」といって、まっすぐに刺奸主簿の温恢のもとに出頭した。温恢はそれをめでて詳しく曹操に説明し、両人とも死刑の一級下の刑に減らされた。

のちに河間郡の丞に任命され、次第に昇進して滎陽都尉となった。

魯山の山中に数百人の盗賊がいて、けわしい場所にたてこもり、住民に被害を与えていた。そこで孫礼を魯相に転任させた。孫礼は着任すると、扶持米を出し、官民を動員して賊の首に懸賞金をかけ、降伏・帰参する者を招き入れ、山中に戻って離間させ、たちまちのうちに平安をもたらした。

山陽・平原・平昌・琅邪の太守を歴任した。

228年、大司馬曹休に従って呉征討に夾石に赴いた。深入りしてはいけないと諫言したが、いれられずに敗れた。陽平太守に移り、中央に入って尚書となった。

曹叡はそのとき宮室を造営していたが、一方、気候が不順で、天下には穀物が少なかった。孫礼は頑強に労役をやめるよう諌めた。

詔勅にいう、「敬んで善言を受け入れ、即刻労役従事の民を開放する。」当時、李恵が作業を監督していたが、あとひと月留めて置いて仕事を完成したいと再度上奏した。孫礼はすぐさま作業場に行き、さらに重ねて上奏することはせず、詔勅だと称して人民を解散した。帝はその気持をりっぱだとしてとがめなかった。

帝が大石山に狩猟に出かけたとき、虎がみくるまに走りよった。孫礼はすぐさま鞭を投げ出して馬からおり、剣をふるって虎を斬ろうとしたが、孫礼に馬に乗れと勅命を下した。

曹叡は臨終の際、曹爽を大将軍としたが、良き輔佐役が必要だというので、寝台の側で遺詔を受けさせ、孫礼を大将軍の長史に任命し、散騎常侍の官を加えた。

孫礼は誠実にして正直、妥協をしなかったから、曹爽は具合が悪く、揚州刺史とし、伏波将軍の官を加え、関内候の爵位を授けた。

呉の大将全琮が数万の軍勢をひきいて侵略してきた。当時、州兵は休暇をとっており、残っている者はほとんどいなかった。孫礼はみずから守衛の兵を指揮し防禦に当たり、芍陂で戦った。

戦いは朝から夕暮れまで続き、将兵の死傷者は半数以上にのぼった。孫礼は白刃を冒して戦い、馬は数個所の傷を受けたが、手に陳太鼓とばちを持ち、一身を顧みずに奮戦したので、賊の軍勢はやっと退却した。

詔勅によって慰労され、絹七百匹を賜わった。孫礼は事変で死んだ者のために祭祀場を設け、出席して哭したが、号泣の声は胸からほどばしり出た。賜わった絹は全部戦死者の家に送り、一つも自分のものとしなかった。

召し寄せられて少府に任命され、外に出て荊州刺史となり、冀州牧に転じた。

太傅の司馬懿は孫礼に向かっていった、「清河と平原が境界争いをしてから八年になり、二度の刺史交替でも決着がついていない。虞と芮は周の文王の存在によって諒解に達した。うまくはっきりさせてくれよ。」孫礼はいった、「原告は荒れはてた墓をもち出して証拠としており、被告は古老の言葉を正しいとしております。しかし、老人にむちを加えるわけにはゆきませんし、また荒れた墓は高台に移転されたり、仇敵を避けて移されたりするものです。現在聞いているとおりならば、皋陶でもなお解決が容易でないと感ずるでしょう。もし完全に訴訟をなくしたいと考えるならば、烈祖さまがはじめて平原に国をもたれましたときの地図によってこれに決着をつけるべきです。どうしてそれより深い時代に遡って問題にして、訴訟を面倒にする必要がありましょう。昔、周の成王は桐の葉を使って叔虞に冗談をいいましたが、周公はすぐさま彼を列候にとりたてました。今、地図は政府の倉庫に所蔵されておりますからには、座上において断定を下すことが可能です。どうして州を待つ必要がありましょう。」司馬懿はいった、「そのとおりじゃ。ぜひ別に地図を与えよう。」

孫礼は到着すると地図を調べて平原に所属すべしと考えた。ところが曹爽は清河の主張を信じ、文章を下して、「地図は使用すべきでない。両者のくいちがいについて調べるべきである」と述べた。孫礼は上奏文をたてまつった、「管仲は覇者の輔佐で、その器量はそれなりに小さかったのですが、それでもよく伯氏の所領である駢邑を奪い取り、一生怨みの言葉を吐かせませんでした。臣は牧伯の任を引き受け、聖朝の明白な地図を奉じて、土地の境界を調査いたしました。境界は実に王翁河をもって線としております。ところが兪県では馬丹候を証拠とし、ごまかして鳴特河を境界と主張し、いいかげんなでたらめの訴訟で政府をまどわせております。ひそかに聞きますには、大ぜいの口の端は金属でもとかし、石をも浮かせ木をも沈め、三人が市場に虎がいるといえばそれが事実となり、慈母も機織りの杼を投げ出して家をとび出す、とか。今、二郡が境界争いをはじめてから八年になりながら短期間に決着をつけたのは、解釈の文書と地図が存在し、調査して事実を明白にすることが可能であったからです。平原は二つの河の間にあり、東に向かってのぼってゆくと、その間に爵提があります。爵提は高唐の西南に位置しますが、争っている土地は高唐の西北に位置し、両者の距離は二十余里です。長い歎息をつき涙を流すといってよいでしょう。解釈と地図を調べて上奏したのに、兪は詔勅を受けません。これは臣が軟弱でその任務にたえられないからです。臣はこれ以上、平然と禄盗人として居座れましょうや。」

すぐさま正装して履物をつけ、馬車の用意をして放逐の処分を待ち受けた。曹爽は孫礼の上奏文を見て激怒し、孫礼が怨みを抱いていると弾刻し、五年間の禁錮に処した。

家にくらすこと一年ほどして、大ぜいの人が彼のためにとりなしたので、城門校尉に任命された。

当時、匈奴王の劉靖のひきいる軍勢は強盛をほこる一方、鮮卑族がたびたび国境地帯をあらした。そこで孫礼をもって并州刺史とし、振威将軍・使持節護匈奴中郎将の官位を加えた。

太傅の司馬懿に挨拶に出かけたが、怒りをあらわして発言しなかった。司馬懿はいった、「卿は并州を得ながら不足かね。境界の紛争をおさめながら本来の官を失ったことがしゃくにさわるのかね。今遠方への別れにあたって、なぜ不機嫌なのじゃ。」孫礼、「なんと明公のことばの的はずれで小さいことか。私は不徳ではありますが、どうして官位や過去のことを気にかけましょう。もともと、明公には伊尹・呂望と足跡を同じくされ、魏王室を匡正輔佐せられ、上は明帝の委託にこたえ、下は万世にわたる勲功を立てられるものと思っておりました。今、社稷は危機にひんしており、天下は不安におびえております。これこそ私が不機嫌な理由です。」そして涙が顔じゅう流れた。司馬懿はいった、「まあおちつきたまえ。忍ぶべからざるを忍ものだ。」

曹爽が殺されたのち、中央に入って司隷校尉となり、あわせて七郡・五州を管轄としたが、いずれに対しても威信があった。

司空に昇進し、大利亭候にとりたてられ、一百戸の領邑を与えられた。

孫礼は廬毓と同じ郡の出身で同年輩であったが、感情的にしっくりいかなかった。人がらは互いに長所・短所があったけれども、しかし名声・地位はほぼひとしかったとされる。

250年、逝去し、景候と諡された。


評価

孫礼は、剛毅果断、厳格正直の人だった。

崔琰に「今は身分が低いが、いずれ三公になる人物だ」と高い評価を得ていた。