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姓名 | 司馬朗 |
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字 | 伯達 |
生没年 | 171年 - 217年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 行政で恵み、人民から称えられ、部下に慕われた人物 |
主な関連人物 | 曹操 司馬懿 司馬孚 |
関連年表 |
194年 司空椽属・成皐の令となる 208年 丞相主簿となる 216年 兗州刺史となる |
司馬朗は字を伯達といい、河内郡の温県の人である。父は司馬防、弟は司馬懿・司馬孚・司馬馗など、子は司馬遺がいる。
九歳のとき、彼の父の字をいう者がいた。司馬朗は、「他人の親を馬鹿にする者は自分の親を尊敬しない人です」といった。客はそのことを謝った。
十二のとき、経書の試験を受けて童子郎となった。試験監督はその身体が大きくりっぱなことから、司馬朗が年をかくしているのではないかと疑いを抱き、訊問した。司馬朗はいった、「郎の父方母方の親類とも代々大柄なのです。郎は幼弱ではありますが、出世を願う気持はありません。年をいつわって早成を望むのは、私の願うところではありません。」試験監督はその言葉に見どころがあると思った。
のち関東で兵乱が起こった。もと冀州の刺史の李邵は野王に暮らしていたが、けわしい山に近いので温に移住したいと考えた。司馬朗は李邵にいった、「くちびるが亡べば歯が危ない、の比喩は、ただ虞国とカク国の関係だけにあてはまるでしょうか。温と野王の関係こそそれですぞ。今かの地を去ってこの地に住まっても、それは朝に滅亡するはずの時期を避けたというだけのことです。それにあなたは国の人々の期待をになっている方です。今盗賊どもが来ぬ先に移住するとなると、山沿いの県はきっとおどろきあわてるでしょう。これは人民の心を動揺させて悪事の原因を招くことです。ひそかに郡内のためにそのことを心配します。」李邵は聞き入れなかった。国境の山岳地帯の住民ははたして混乱し、内地に移住し、野盗となって荒らしまわるものがあった。
このとき、董卓は天子を移して長安に都させ、董卓自身は洛陽に留まったままだった。司馬朗の父の司馬防は治書御史をしており、西方へ移らなければならなかったが、四方が麻のごとき乱れていることから、司馬朗に命じて家族をつれて郷里の県に帰らせた。司馬朗は逃亡するつもりだと密告する者があったので、とらえられて董卓のもとにつれて行かれた。
董卓は司馬朗に向かっていった、「卿はわしの死んだ子と同じ年なのに、もう少しで完全に裏切られるところじゃった。」司馬朗はそこで申し述べた、「明公には世俗を越えたおん徳をおもちになっておられ災厄の時代に遭遇されましたが、もろもろのけがれをすっかり清められ、広くすぐれた人材を挙用されておられます。これこそまことに無私のお心をもって思慮をめぐらされているためで、今にも太平のみ世が現出されましょう。ご威光おん徳はいよいよ盛んに、功業はいよいよあきらかでありますのに、戦争が毎日起り、州や郡が乱れに乱れ、国境内では人民が落着いて仕事もできず、財産をうちすてて逃げかくれております。四方の関所で逃散を取り締まり、重い刑罰を課しましても、なお完全にはなくなりません。これこそ郎の心ふさがる思いのすることでございます。どうか明公には過去の出来事を鑑とされ、少しく慎重なご考慮をなさってください。さすれば栄あるおん名は日月とともに輝き、伊尹・周公も肩を並べるにたりません。」董卓はいった、「わしもそれに気がついておる。卿の言葉はもっともじゃ。」
司馬朗は、董卓の滅亡まちがいなしと察知し、引き留められることを心配した。さっそく金銭や物品をすっかり出して董卓のもとで権力を握っている者に賄賂として贈り、郷里に帰ることを求めた。帰りつくと村の主だった年寄りに向かっていった、「董卓は道理にもとり、天下の仇敵となっています。今こそ忠臣義士が奮起する時です。わが郡は都と境界を接しておりますが、洛の東には成皐があり、北は大河に限られています。義兵をあげた天下の英雄たちが進軍できないでいるときには、形勢からいってこの地に停留するにまちがいありません。これこそ四分五烈、戦争の巷と化する土地で、自分で安定するのは困難です。道路がまだまだ通じているうちに、一族をあげて東に向かい黎陽に行くにこしたことはありません。黎陽には陣営があって軍兵がおり、趙威孫は郷里の古い親戚で、監営謁者として兵馬を統率しており、頼りがいがあります。もしのちに状勢の変化があれば、ゆっくりと様子を見ても遅くはないでしょう。」
年寄りたちは旧地を愛して従う者はいなかった。ただ同県の趙咨だけが家族をひきつれ、司馬朗と同行した。
のち数ヶ月して関東の諸州諸郡では兵の旗あげがあったが、軍勢数十万がすべて滎陽と河内に集まった。将軍たちは協力しあうことができず、軍兵を放って略奪をほしいままにし、人民は半数近くが殺された。
かなりたって関東の兵は解散し、曹操と呂布とが濮陽で対峠した。司馬朗はそこで家族をひきつれて温に帰った。そのとき大飢饉が襲い、人は互いに食いあった。司馬朗は一族のものをいたわり養い、若者たちを教育し、末世だからとて仕事をおろそかにしなかった。
二十二歳のとき、曹操は召し寄せて司空椽属とし、成皐の令に任命したが、病気のため職を離れ、また堂陽の長となった。
彼の行政は寛大で恵み深く、鞭打ち杖打ちを行わなくても、住民は禁令を犯さなかった。
以前、住民のうち都内の人口をふやすために移住させられた者がいた。のちに県が船を制作すべしとの調達令を受けたとき、移住民は県でととのえられないことを心配し、互いに連れだってこっそり帰って手助けをした。彼が愛されているのはこのようであった。
元城の令に昇進し、中央に入って丞相主簿となった。
司馬朗は、「天下崩壊の状勢がこうなったのは、秦が五等の爵位制度をなくしたことと、いざというときのために郡・国で狩猟による軍事訓練を行っていなかったことに原因する。現在五等の制度を復活するのはまだ不可能だが、州と郡にはいずれも兵を置き、外は四方の外敵に備え、内は不逞のやからを威圧させるべきで、これは方策としてすぐれている」と考えた。
また、「井田の制度を復活すべきである。以前には人民がそれぞれ家代々の資産をもっており、中途でそれを取り上げることはむつかしかたので、今に至るまでそのままである。現在は大動乱のあとを受けて、人民は分散し、土地には持主がなく、すべてお上の田となっている。この時期にこの制度を復活すべきである」と考えた。
それらの意見は施行されないままであったが、しかし州と郡が軍兵をひきいているのは、司馬朗の本来の意志にかなったものである。
兗州の刺史に昇進し、政治と教化は充分にゆきわたり、人民は彼をたたえた。軍の行動に参加しているときでも、つねに粗衣粗食、質素な態度で部下をみちびいた。平素、人物評価と古典を好んだ。郷里の人李テキらは盛んに名声栄誉を得ていたが、司馬朗はいつもはっきりと彼らに低い評価を与えた。のち李テキらは失敗し、当時の人たちは彼の見識に心服した。
鍾繇と王粲が著わした論文に、「聖人でなければ太平を招くことは不可能である」とあった。司馬朗は、「伊尹・顔回といった連中は聖人ではないけれども、数代にわたって引き継いで政治を担当させたならば、太平を招くことができる」との考えを述べた。
217年、夏侯惇・臧覇らと呉を征討した。居巣まで来ると、兵士たちは疫病が大流行した。司馬朗は自身で巡視して医薬を与えたが、病気にかかってなくなった。享年47。
遺言して麻布の服と幅巾に、その季節の服を着せようと命じた。
『魏書』にいう。司馬朗は死を前にし、将兵たちに向かっていった、「刺史は国の恩恵を受け、万里の外に監督者として来たが、わずかの功業も示さぬうちに、いま疫病にかかった。もう助かるみこみはなく、国恩にそむくこととなった。わが身が死んだあとは、麻布の衣と幅巾をつけ、季節の服を着せてくれ。私の意志をたがえるでないぞ。」
後に、司馬懿は亡き長兄のことを顧みて、「わたしは人格者としては、亡き兄に及ばなかった」と懐古したという。
『魏書』にいう。曹丕は司馬朗の論を嘉し、秘書に命じてその文を記録させた。
司馬朗が董卓に具申したとき、裴松之は、「司馬朗のこの返答はただ董卓の功業徳義をたたえているだけで、いましめているわけではない。まったく自己弁護もしていない。それなのに董卓は、『わしもそれに気がついておる。卿の言葉はもっともじゃ』といっている。双方の言葉はわざと応じあわなくしているように見える。」と見解している。
孫盛はいう。鍾繇の論はまちがいであるうえに、司馬朗の論も妥当であるとはいえぬ。昔のことばにこういうのがある、「湯は伊尹を起用して、不道徳な人間は遠くへ去った。」『易』は「顔氏の若者はまずはほとんど聖人に近い。身に不善があれば必ずそれと気づく。気がつけば絶対にくりかえさない」とたたえる。これらのことから判断すれば、聖人と大賢者とを比較すると、出処進退の道は同一であって、道理からいって天下を治め風化を垂れる点に差異はないのである。秦平の美しき世の到来を、何世代も待つ必要があろうか。「善人が百年国家を治めれば、暴虐に勝ち死刑をなくすことができよう」。また「旧習に追従するだけではないが、聖人の域にまでは達していない」という。数代を必要とするという議論の根拠はだいたいここにあるであろう。しかしこれを大賢者と比較すれば、当然距離があるのである。