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姓名 | 程普 |
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字 | 徳謀 |
生没年 | 生没年不明 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 呉の基礎を築いた武将の一人 |
主な関連人物 | 孫権 孫策 孫堅 周瑜 |
関連年表 |
190年 董卓討伐 195年 江東制覇 208年 赤壁の戦い |
程普、字を徳謀といい、右北平郡の人である。子は程咨。
州や郡の役人となったが、立派な風采があって将来への見通しがきき、人との応対も巧みであった。
やがて孫堅の配下に入って征伐に従い、黄巾の一味を宛やトウで討伐し、董卓を陽人で胡軫、呂布、華雄らを撃ち破った。城攻めや野戦で、身には多くの手傷をおった。
孫堅が逝去したあと、今度は孫策に従って淮南に行き、その指揮のもとに盧江を攻めて、これを陥した。軍をめぐらせて、孫策とともに長江を渡って東方に向かった。孫策は、横江・当利までくると、張英や于麋らを撃ち破り、秣陵・湖熟・句容・曲阿などの城を次々と降した。程普は功績があって、兵二千人と騎兵五十匹とを加贈された。さらに軍を進めて烏程・石木・波門・陵伝・余杭を撃ち破ったときにも、程普の手柄は大きかった。
孫策が会稽郡に入ると、程普を呉郡の都尉に任じ、銭唐に役所を置いてその統治にあたらせた。のちに丹陽の都尉に移って、石城に住まいした。
ふたたび軍を率いて、宣城・痙・安呉・陵陽・春穀の反乱者たちを討伐し、これらをすべて撃ち破った。孫策が祖郎を攻めたときのこと、大勢の敵兵に包囲されてしまったが、程普ともう一人の騎兵とが二人して孫策をかばい、馬をかけらせ大声で叫んで、矛をかまえて敵兵の中につっこんだ。敵兵が道をひらいたので、孫策は脱出することができた。のちに、盪寇中郎将の官を授かり、零陵太守の任にあたった。
その後、劉勲を尋陽に討伐し、さらに軍を進めて黄祖を沙羨に攻めた。帰還すると、軍を石城に留めた。
200年、孫策が逝去すると、程普は張昭らとともに孫権をもり立て、三つの郡(会稽・呉・丹陽)の各地をめぐって、服従せぬ者たちを討ち平らげた。
孫権のもとで江夏の征伐に参加し、その帰途、豫章まで来たところで、本隊と分かれて楽安を討伐した。楽安が平定されると、太史慈にかわって海昏の守備にあたった。
208年、周瑜とともに左右の督となって、曹操の軍を烏林(赤壁)で撃ち破り、さらに進んで南郡を攻め、曹仁を逃亡させた。この功績で裨将軍の官を授かり、江夏太守に任ぜられ、沙羨に役所を置いてその統治にあたり、四つの県が食邑として与えられた。
周瑜が死去したあと、彼に代わって南郡太守の任にあたった。孫権が荊州を分割して劉備に与えると、程普はふたたびもどって江夏を治めることとなり、盪寇将軍に昇進したあと、死去した。享年不明。
『呉書』では、程普が反逆者を数百人処刑したとき、自らを火中に飛び込ませるという方法をとったため、癩病にかかり数百日後に死去したとある。
孫家に最も古くから仕えていた古参の武将であり、その中でも程普が最年長であったことから、他の武将から程公と呼ばれ尊重された。気前がよく他人に施しをよくし、士人とも親しく交わったという。『江表伝』では若くして台頭してきた周瑜とは折り合いが悪かったが、後に彼の人柄と能力を認め尊重するようになったという。
小説『三国志演義』では、反董卓連合軍に参加した孫堅配下の勇猛な武人として黄蓋、韓当、祖茂とともに登場し、「鉄脊蛇矛」を愛用武器としている。華雄との戦いでは華雄の副将・胡軫を一騎打ちで討ち取る一方で孫堅の参謀的な役割も務め、伝国の玉璽を発見した孫堅に対し、それを持ち帰り帰国して大計をなすべきだとそそのかしている。孫堅と袁紹が対立したときは、黄蓋、韓当とともに袁世紹配下の猛将の顔良、文醜と対峙した。朱治や呂範のすすめで孫策が挙兵したときは、挙兵の知らせを聞きつけ、黄蓋達とともに孫策の軍に加わっている。劉繇との戦いでは太史慈と一騎打ちをして引き分けたこともある。孫権の時代、江夏の黄祖との戦いでは、孫堅の仇を討つため逃亡する黄祖を追い、同じく黄祖の首を狙って動いていた甘寧とともにその首級を挙げた。赤壁の戦いと南郡の戦いでは正史同様の活躍をするが、病をおして血気にはやろうとする周瑜のなだめ役に回っている。