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姓名 | 董和 |
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字 | 幼宰 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 県令として乱れた風俗を正し、善政を全うした政治家 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 董允 |
関連年表 |
214年 左将軍大司馬となる |
董和、字を幼宰といい、南郡枝江県の人である。子は董允がいる。その先祖はもと巴郡の江州の人であった。
後漢末期、董和は一族をひきいて西方に移住した。益州の牧劉璋は彼を江原の長、成都の令に任命した。蜀地方は豊かであって、当時風俗は奢侈に流れ、財産家は、諸侯の衣服をまとい、贅沢な食事をとり、冠婚葬祭には家産を傾けるありさまだった。
董和はみずから率先して倹約につとめ、粗衣粗食に甘んじ、身分を越える行為を禁止し、それに対する規制を行なったので、彼の赴任した県ではすべて風俗を改め正しい方向に向い、法規を恐れて違反しなくなった。
しかしながら県境にいる豪族たちは董和の厳しい法規を嫌って、劉璋に進言して、巴東の属国都尉に転任させた。官民は老若つれだってやってきて董和の留任を懇願し、その数、数千人にのぼったため、劉璋は二年間の留任を認めた。
任地から帰ると益州の太守に昇進させたが、彼の清潔さと倹約ぶりは以前と変わらなかった。
異民族と協力しながら仕事をし、誠意を貫くことにつとめたので、南方地方は彼を敬愛しかつ信頼した。
劉備は蜀を平定すると、董和を召して掌軍中郎将に任命し、軍師将軍の諸葛亮といっしょに、左将軍大司馬の幕府の仕事を担当させたが、彼は役に立つことを進言し、そうでもないことをやめさせ、諸葛亮と仲良くつきあった。
董和は任官し禄を食んで以来、外では異民族の居住区を治め、内では政治の中枢にかかわり、二十有余年にも及んだが、死んだときには、家にわずかばかりの財産も蓄えてなかった。
諸葛亮は後年丞相になったとき、部下の役人たちに命令を与えて、「そもそも職務にたずさわる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げるように。もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討し直すことをいうとならば、仕事に欠陥を生じ損失を招くであろう。異なる意見を検討し直して適切な施策ができれば、それはちょうど破れ草履を捨てて珠玉を手に入れるようなものである。とはいえ、人間は残念ながらそうすべてのことに気を配れないものだ。ただ徐元直だけは、こうしたことに対処して迷わず、また董幼宰は職務にたずさわること七年、仕事上で不充分な点があれば、何度も考え直し、相談にやって、国家に忠誠を尽くすことができるならば、私も過失を少なくすることができるであろうに。」といった。
また述べて、「私は昔、初めて崔州平とつきあい、しばしば欠点を指摘され、後には徐元直とつきあい、何度も教示を受けた。先に董幼宰といっしょに仕事をしたが、いつもいいたいことを遠慮なしにいってくれたし、後に胡偉度と仕事にたずさわったが、たびたび諫言してまちがいをとめてくれた。私の性質は暗愚であり、すべてを受け入れることはできなかったけれども、しかしながらこの四人とは終始気が合った。これもやはり彼らの直言をためらわない態度を証明するにたるものである。」諸葛亮の董和に対する追慕の念は、これほどのものであった。
生没年は不明であり、劉備が皇帝に即位する前の215年から220年頃の間に死んだと思われる。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、9番目(人数では10人目)に書かれていて、その功績が大きく、国政を担った人物であった。