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姓名 | 魏延 |
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字 | 文長 |
生没年 | ? - 234年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備逝去後、蜀漢を支えた武功第一の武人 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 楊儀 |
関連年表 |
214年 益州平定 219年 漢中太守に抜擢される 227年 北伐参加 |
魏延、字を文長といい、義陽郡の人である。
一隊長として劉備に随行して蜀に入り、たびたび戦功をたてたので、牙門将軍に昇進した。
劉備は漢中王になると、政庁を成都に移したので漢川のおさえとして重要な将軍を用いる必要があった。人々の評判では必ず張飛が任用されるだろうといわれ、張飛自身もまた内心そうだろうと自認していた。
劉備は意外にも魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍に任命し、漢中太守を兼務させたので、一軍みな驚いた。劉備は群臣を大勢集め、魏延に質問して、「今君に重任をゆだねるのだが、君は任に当たってどう考えているのか」というと、魏延は、「もしも曹操が天下の兵をこぞっておし寄せてきたならば、大王のためにこれを防ぐ所存。副将率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを呑み込む所存です」と答えた。劉備はよきかなと称し、人々はみなその言葉を見事だと思った。
劉備が帝号を称すると、鎮北将軍に昇進した。
223年、都亭侯に封じられた。
227年、諸葛亮は漢中に駐屯すると、あらためて魏延を督前部に任じ、丞相司馬、涼州刺史を兼務させた。
230年、魏延を西方の羌中に侵入させた。魏の後将軍の費揺、雍州刺史の郭淮は魏延と戦ったが、魏延は大いに郭淮らを撃破し、昇進して前軍師・征西大将軍・仮節となり、南鄭侯に爵位をあげられた。
魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、いつも一万の兵を要請して、諸葛亮とちがう道をとり潼関で落ちあって、韓信の故事にならいたいと願ったが、諸葛亮は制止して許さなかった。魏延はつねに諸葛亮を臆病だと思い、自分の才能が充分発揮できないのを嘆きかつ恨みに思っていた。
魏延は士卒をよく養成し、人なみはずれた勇猛さをもっているうえに、誇り高い性格だったから、当時人々は皆彼を避け、へり下っていた。ただ楊儀だけは魏延に対して容赦しなかったので、魏延は大いに怒りを抱いており、ちょうど水と火のようにあい容れなかった。
234年、諸葛亮は北谷口に出陣し、魏延が先鋒となった。諸葛亮の軍営から十里の所で、魏延は頭に角が生える夢をみたので、夢占いの趙直に質問すると、趙直はごまかして、「そもそも麒麟は角を持っておりますが用いることはありません。これは、戦わずして賊軍が自壊する象徴であります」といったが、対座してから人に告げて、「角の字体は、刀の下に用がある。頭の上に刀を用いるのだから、その不吉さは大変なものだ」といった。
秋、諸葛亮は病気に苦しみ、内密に長史の楊儀、司馬の費イ、護軍の姜維らに、自分が死んだ後の軍撤退に関する指図を与えた。魏延には敵の追撃を断たせて、姜維にはその前を行かせ、もしも魏延が命令に従わない場合には、軍はそのまま出発するように命じた。
諸葛亮が没すると、秘密にして喪を発表せず、楊儀は費イに命じて魏延のもとに行かせ、彼の意向を打診させた。魏延は、「丞相が亡くなられてもわしは健在である。幕府づきの役人たちはこのまま遺体を運んで帰国し、埋葬するがよかろう。わしはみずから諸軍を率いて賊を撃つのが当然である。一人の死によって天下の事を廃するとはなにごとか。それにこの魏延を誰だと思っているのか。楊儀ごときの指揮を受け、殿軍の大将などなれるものか」そのまま費イとともに、去る部隊と留まる部隊に区別し、費イに手書きさせて自分と連名で諸将に告示した。
費イは魏延をだまして、楊儀を説得するとして去った。魏延はすぐに後悔し、彼を追いかけたがもう追いつけなかった。魏延は人をやって楊儀らを探らせると、諸葛亮の定めた指図に従い、諸軍営は撤退して帰還していた。
魏延はたいそう立腹し、楊儀がまだ出発していないうちに先まわりしようと指揮下の軍勢を率いてただちに南方へひきかえし、通過する先々でつり橋を焼き落とした。
魏延と楊儀はそれぞれ上奏して相手が反逆したと訴え、一日のうちに至急の文書が次々に届けられた。劉禅が董允、蒋エンに質問すると、二人はどちらも楊儀の肩をもって魏延を疑った。
魏延が先に到着すると、楊儀らは何平(王平)を前方において魏延を防がせた。何平は魏延の先陣をどなりつけて、「公が亡くなられてその身体がまだ冷たくならないうちに、おまえたちはどうしてこんなことを平気でするのだ」といった。魏延の士卒は、非は魏延のほうにあることを知っていたから、命令に従う者なく、軍兵みな四散した。
魏延はとり残されて息子たち数人と逃亡し、漢中に出奔した。楊儀は馬岱に追跡させて彼を斬り殺させた。
首が楊儀のもとに届くと、楊儀は立ち上がって自分でそれを踏みつけ、「ばか野郎め。もう一度悪いことがやれるものならやってみろ」といった。かくて魏延の三族は処刑された。
陳寿は魏延の行動について、「魏延が北へ行って魏に降伏せず、南に帰ったのは、政敵の楊儀を殺そうとしたためである。そうすれば、普段は自分に不同意だった諸将も、諸葛亮の後継者として自分を望むようになるに違いないと期待していた。魏延の本心は推測するにこのようなものであり、謀反を起こそうとしたのではない」と考察している。また一方で、その死については「災いを招き咎を受けることになったのは、自らの責任でないとはいえない」とも評している。
小説『三国志演義』では、魏延は初めは荊州の劉表配下の親劉備派の将軍として登場する。劉表の死後、新野に攻め寄せた曹操軍の大軍から逃れるために民を引き連れた劉備軍が襄陽の城に現れた時に、既に曹操に降伏した蔡瑁らが突然民衆混じりの劉備軍に矢を浴びせて攻撃した。それに怒った魏延が蔡瑁に対して反乱を起こしたものの、混乱を避けるため劉備軍が江陵に落ちていったため、魏延はその時点では劉備と合流することはならなかった。
その後長沙太守・韓玄を頼り、魏延はその配下となっていた。赤壁の戦いに勝利した劉備が荊州の南4郡を攻撃し、韓玄もその対象となり、劉備の命令を受けた関羽が侵攻してくる。それを迎え撃った同僚の黄忠が関羽との内通を疑われ韓玄に処刑されそうになったときに、魏延は民や兵士を扇動し共に反乱を起こして韓玄を斬り、城を開け降伏した。その後、降参し劉備と対面した際、その時の行動(主君を裏切る行動)に対して、諸葛亮は「反骨の相(頭蓋骨が後部にでていること。裏切りの象徴とされる)」があると言い、魏延を斬るように進言する逸話が設けられ、後々の因縁の伏線となっている。その際は劉備が取り成したために斬られずに済んだが、それからも諸葛亮はしばしば彼を亡き者にしようと進言する。なお、長沙以前に攻略された武陵では、魏延同様に鞏志が主君である太守の金旋を殺し降伏しているが、こちらは咎められることもなく武陵太守に任じられている。ちなみに後の益州攻略戦では勝手に抜け駆けをし危機に陥った魏延に対し、援軍として救った黄忠が劉備に対し軍紀を乱した魏延を処刑すべきと進言している。
北伐の中、五丈原の戦い前後においては、おおむね正史と同じような展開で物語は進行するが、以下のような逸話が挿入されている。諸葛亮は病で倒れ、自分の寿命があと少しで尽きると知り、寿命を延ばすための祈祷を始めた。それを察した司馬懿は祈祷を止めるために戦を仕掛ける。魏延は祈祷の事を全く知らなかったため、諸葛亮の所へ乗り込んで魏軍が攻め込んできたことを伝えようとした。その時に祭壇を荒らしてしまい諸葛亮の祈祷は失敗する。祈祷に参加していた姜維が魏延を斬ろうとするが、諸葛亮は「これは天命なのだ」と言い諦めてしまう。その後攻め込んできた魏軍は魏延によって撃退された。また正史にも書かれている魏延の死を予言する夢の話も、『演義』では諸葛亮が死去した日に見た夢とし、さらに趙直が真意を打ち明けた相手を費イに特定することで、物語の伏線として盛り上げている。