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劉備の政略結婚

蜀伝


彭羕 永年ほうよう えいねん

姓名彭羕
永年
生没年174年 - 214年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評傲慢に振る舞って左遷し、誹謗で処刑された人物
主な関連人物 劉備 諸葛亮 馬超 法正 
関連年表 214年 治中従事となる

略歴

彭羕、字を永年といい、益州広漢郡の人である。

211年、益州に入った劉備は翌年、また涪水を遡って漢中の張魯を討つ態勢をとった。彭羕はこの機会に劉璋を見限って、劉備に仕えて自分の運を拓こうと考え、劉備の参謀となっている龐統を訪れた。彭羕は龐統と面識がなく、また折から来客中であったが、彼はそんなことに頓着せず、いきなり龐統の寝台に上がって寝転び、「お客が帰った後、じっくりと語り合おうではないか」と言った。客が帰ってから彭羕のところに来た龐統に、彼はまず食事を出すよう要求した。このあたりの呼吸は、戦国自体の説客が自分の意見を聞いてもらうために、あえて相手の意表を衝く手法を用いたものを彷彿させた。龐統もこれに引っかかり、二晩も語り合い、彼を大いに評価した。

劉備の益州入に尽力した法正もまた、以前から彭羕を知っていたので、龐統は法正とともに彼を劉備に紹介した。劉備はその才能を高く評価し、諸軍に指示を与えさせたり、使者として用いたところ、悉く意に叶ったため、知遇は日増しに厚くなった。

214年、劉備は成都を占領、益州の牧となった。彼は彭羕を抜擢して治中従事に任命した。彭羕は卑い身分から起用され、一朝にして州民の上に立ったために思い上がってしまい、優遇を鼻にかける態度が酷くなった。諸葛亮は表面はともかく、内心それを快く思わず、しばしば劉備に「彼は遠大な野心を抱いており、おとなしく仕えさせておくのは困難でしょう」と言っていた。諸葛亮を信頼していた劉備は、彭羕のやり方を観察した結果、次第に疎んずるようになり、長江沿岸の江陽太守に左遷した。

彭羕は遠方への転出を不快に感じて馬超に会いにいった。馬超は「あなたは抜群の才能を持ち、主公も大変重用され、諸葛亮や考直と足並みを揃えて活用するのは当然と思っていたが、外に出されて小郡の太守となっては本来の希望を失うことになりましょう」と言った。

彭羕は「あの老革は耄碌して話にならぬ」と言い、さらに「貴公が外側を受け持ち、私が内側を受けて持てば天下は簡単に手に入ろう」と言った。これは二人で内外から呼応して叛乱を起こせば、劉氏政権を滅ぼせると示唆したものだ。馬超は流浪の末に蜀に帰順した者で、いつも身の上を安らかず思っていたから、彼の言葉を聞いて大いに驚き、黙然として答えなかった。そして彭羕が帰ると、詳しくその発言の内容を上奏した。彭羕は逮捕され、係の役員に引き渡された。

劉備の成都占領に大功があった馬超でも、劉氏政権の中で微妙な地位に在ったことを示していた。馬超は劉備政権を構成する荊州閥・益州閥どちらにも属さない不安定な立場だった。彭羕が馬超を訪れた狙いもまた、その辺の事情をわきまえたものだった。

獄中から彭羕は諸葛亮に手紙をだした。冒頭、劉備は主と仰いだのは、曹操の暴虐、孫権の無道、劉璋の暗弱に対して、「主公こそ覇王の器量を持つお方だったから」と持ち上げた。次いで、葭萌関の面会して治世の要務を論じ、益州奪取の計画を立てると、主公はこれを用いて行動を起こされたと言い、自分が劉氏政権の成立に功績があったことを訴えた。そして「老革」云云は自分の浅慮じゃら出た酒の上の言葉で、主公は老いてはいないと言い、且つ功業を立てるのに、老若は何の関係があろうかと取り繕った。

「内外」云々は馬超に北方の州で功を立てさせ、主公と協力して共に曹操を討とうと考えただけで他意はない、馬超がこの言葉を伝えたのは正しいが、ただその間の事情をはっきり分別できなかっただけである、と釈明した。そして諸葛亮こそは名宰相伊尹・呂尚にも当たる人物であり、主公とともに大きな謀計を成就していただきたいと記した。しかし、その甲斐もなく処刑された。享年37歳。


評価

身長は八尺余り、容貌は甚だ魁偉だった。また、傲慢な性格で他人を軽んじる癖があり、そのせいもあってか、州に仕えても下級の事務官の仕事しか与えられなかった。その性格を忌むられた彭羕は、人々から州牧劉璋に誹謗され、髠鉗の刑に処せられて労役囚となってしまった。


演義

小説『三国志演義』では、字は永言。親友の孟達が関羽を見殺しにしたことによって立場が危うくなったため、孟達宛の書簡を自分の従者に渡す。だがこの従者は関所で馬超に見つかり投獄されてしまう。

事態を察した馬超が、彭羕の邸宅を訪れて真相を探ると、彭羕が正史と同じような言葉で劉備への謀反とも取れる話を持ちかけてくるのである。あとは正史と同じように、馬超が劉備に上奏したため、このことで警護兵に逮捕され処刑されてしまう。親友の刑死を知った孟達は、直ちに上庸から魏に奔ったという設定になっている。