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姓名 | 楊洪 |
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字 | 季休 |
生没年 | ? - 228年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 事務処理能力を評価され、適正な判断と処置を行った人物 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 劉禅 向朗 張裔 |
関連年表 |
214年 蜀部従事となる 219年 治中従事となる 223年 蜀郡太守・忠節将軍となる |
楊洪、字は季休といい、ケン為郡武陽県の人である。
劉璋の時代、諸郡の官吏を歴任した。
劉備が蜀を平定すると、太守の李厳は功曹に任命した。李厳は郡役所を移転させたいと思ったが、楊洪はあくまでも諌めて譲らず、かくて功曹を辞職し、官を去りたいと願い出た。李厳は楊洪を州に推薦し、蜀部従事に任命された。
劉備は漢中の支配をめぐって争っているとき、至急の文書をよこし兵を微発せよといってきた。軍師将軍の諸葛亮がそのことを楊洪にたずねると、楊洪は、男子は戦い、女子は輸送に当たるべきだと進言した。
当時、蜀郡太守の法正は劉備の北征に随行していた。諸葛亮はそのため楊洪に蜀郡太守を代行させるよう上奏した。すべての職務をうまく処理したので、本任とした。しばらくして益州の治中従事に転任した。
劉備は帝号を称したのち、呉の征討に赴いたが勝利を得られず、引き上げて永安に滞留した。漢嘉太守の黄元はかねてより諸葛亮に気に入られていなかったので、劉備の病気が重いと聞くと、後の災難を恐れて郡をあげて反逆し、城を焼き払った。このとき諸葛亮は永安へ病気見舞いに出かけており、成都はがらあきになっていた。そのため黄元はますますはばかるところがなかった。楊洪はすぐさま皇太子に言上して、その親衛兵を派遣し、将軍の陳コツ・鄭シャクに黄元を討伐させた。人々は、黄元はもし成都を包囲できなかったら、必ず越スイを経て南中を根拠とするにちがいないと意見を述べたが、楊洪は、策を寝て陳コツ・鄭シャクに命じて南安峡の入口を遮断するだけで、たちまち捕えることができるとして、はたして黄元を生け捕りにすることができた。
223年、楊洪は関内侯の爵を賜わり、ふたたび蜀郡太守・忠節将軍となり、のちに越騎校尉となり、太守の職務は以前どおり執行した。
227年、丞相諸葛亮が北征して漢中に駐留するに際して、張裔を留府長史に任用したいと考え、楊洪にどうかとたずねた。楊洪は考えて、張裔は天性明晰な判断力を有すが、公平でない面があるので、彼一人にまかせるのはよくないと返答した。また、向朗を留守に残して、張裔の下において目を配ればよいと進言した。
張裔は若いころ楊洪と親しかった。張裔が雍ガイによって呉に送られ、呉の地を流浪していたころ、楊洪は張裔の郡に赴任した。張裔の子の張郁が郡吏として仕え、ささいな過失によって処罰されたとき、特別に目こぼしをしてやらなかった。張裔は帰国してこの話を聞くと、たいそう怨みを思い、楊洪との友情にひびが入った。
楊洪は諸葛亮と会ったあと退出して張裔のもとを訪れ、事細かに自分の語った内容を説明した。張裔は楊洪に答えて、「公はわしを留守番にされるだろう。きみがとめるわけにはいかぬぞ」といった。当時の人々のうちには楊洪のことを、内心長史になりたがっているのではないかと疑ったり、張裔に嫌われていることを知って、彼が要職について留守のことをとりしきるのを願わないのではないかと疑ったりした。
後に張裔は司塩校尉の岑述と不和となり、仇敵の間柄になった。諸葛亮は張裔に手紙を送って述べ、楊洪が正しく判断したことを伝えた。批判家たちはこのことから、張裔を公平ではないといった楊洪に私心がなかったことをはっきり知ったのである。
228年、在任中に亡くなった。享年不明。
楊洪は若いころから学問が嫌いだったけれども、忠義・清潔、誠実・明晰な人物であって、公事を憂えるようであり、継母につかえて孝行の限りを尽くした。
『益部耆旧伝』の雑記によると、朝会のときはいつも何祇は楊洪の次の席に坐った。楊洪が何祇をからかって、「君の馬は何とすればはしるのかね」というと、何祇は「故吏の馬が思いきってはしらないのは、ひとえに明府が鞭をまだふるわれないからです」といった。人々はその話を伝えて笑いの種にした。