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姓名 | 陳泰 |
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字 | 玄伯 |
生没年 | ? - 260年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 穆公 |
伝評 | 父陳羣にも勝る政治手腕を発揮し、蜀の姜維と渡り合った名将 |
主な関連人物 | 陳羣 郭淮 司馬昭 |
関連年表 |
青龍年間 散騎侍郎となる 255年 征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事となる |
陳泰、字を玄伯といい、潁川の人である。父は陳羣、子は陳恂、陳温がいる。
青龍年間、散騎侍郎に任命された。正始年間、游撃将軍に移り、并州の刺史となり、振威将軍の称号を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となって、異民族を手なずけ、はなはだ威厳と恩愛があった。
都の貴族たちには財貨をことづけて陳泰に仲介をたのみ奴婢を買ってもらおうとする者が多数いたが、陳泰はそれをすべて壁にひっかけておき、その封も開かなかった。中央に召されて尚書となってから、それらを全部返した。
嘉平の初め、郭淮に代わって雍州刺史となり、奮威将軍の称号を加えられた。
蜀の大将軍姜維は軍勢をひきつれ麹山を利用して二つの城を築き、牙門将句安・李キンらにそれを守備させ、羌族の人質などを集めて諸郡に侵入したり威圧をかけたりした。征西将軍の郭淮は陳泰にそれを防禦する手段について相談した。陳泰は、山道険しく兵糧輸送もままならず、羌族は姜維を厄介がっているので、二つの城を陥落するよう進言した。
郭淮は陳泰の計略に従い、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安の鄧(トウ)艾らを統率させ、軍を進めて彼らを包囲させ、その運送路と城外の流水を断ち切らせた。句安らが戦いをいどんでも応戦を許さなかったので、蜀の将兵は困窮し、食糧を配分し水の代わりに雪を集めて月日を引き伸ばした。姜維は予想どおり救援に来、牛頭山から出て陳泰と対峙した。
陳泰は、諸郡に各自の砦を固めて戦いを交えてはならぬと命令した。使者をやって郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路に沿って東に向かうつもりだから、郭淮は牛頭へ向かい、その帰路をさえぎってほしい、ただ句安らだけでなく姜維もあわせてとらえるべきだと述べた。郭淮はその策に賛成し、諸軍をひきいて進み出た。姜維は恐れて逃走したので、句安らは孤立無援となり、かくて全員降伏した。
郭淮が逝去すると、陳泰は代わって征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事となった。
後年、雍州刺史の王経は陳泰に進言して姜維と夏侯覇が三つの街道から祁山・石営・金城に向かおうとしているから、兵を進め、涼州の軍を枹罕に行かせ、討蜀護軍を祁山に向かわせたい、と述べた。陳泰は賊の勢いからして絶対に三つの道を進むことは不可能だ、そのうえ軍の勢力を分散させることは避けるべきだし、涼州の境界を越えるのは適当でないと判断し、王経に答えた。そのとき姜維らは数万人をひきつれて枹罕まで来、狄道に向かった。陳泰は王経に軍を進めて狄道に駐屯し、陳泰の軍の到着を待ってから計画によって彼らを攻略することを命令した。陳泰は陳倉に軍を進めた。
たまたま王経配下の諸軍は古い関所のあたりで賊と戦闘を交えて負け戦となった。王経はすぐに軍を進めた。陳泰は王経が狄道を占拠して固めないことから別の変事が起こるにちがいないと判断し、五軍営の兵をすべて派遣して前を行かせ、陳泰は諸軍を率いてそれに続いた。王経はすでに姜維と戦って大敗し、一万余人をつれて引き返し、狄道城にたてこもったが、他の兵はみな散りぢりになって逃げた。姜維は勝利に乗じて狄道を包囲した。
鄧艾・胡奮・王秘もまた到着したので、さっそく鄧艾・王秘らと兵を分けて三軍とし、進軍して隴西に到着した。鄧艾らは主張して、先に姜維の勢いを止めるため、隙をうかがい衰えるのを待って、その後に進軍して救助すべきだと述べた。陳泰は、姜維が戦勝による武威を示し、羌族や降伏者らを収容し、櫟陽の穀物を奪っては厄介なことになるので、包囲を長く放置するわけにもいかぬ、と否定した。
かくて軍を進めて、夜に狄道の東南にある高い山の上に到着した。たくさん狼煙をあげ、太鼓と角笛をならした。狄道の城中にいる将兵は救援の到着を見て、皆、心を高ぶらせた。姜維は最初救援の官軍は軍勢の集結を待ってから出発するにちがいないと思っていた。ところが突然もう到着していると聞き、前から練られた奇計があるものと思い込み、上も下もふるえおののいた。軍が隴西を出発してから、山道は深く険しかったので、賊は必ず伏兵を設けていると考え、陳泰は南道を通るふりをした。姜維は予期どおり三日の間伏兵を置いていた。
正規軍はひそかに行動し、突然その南に姿をあらわした。姜維はそこで山によりそいながら突撃した。陳泰は彼と交戦し、姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向かい沃干阪に到着した。陳泰は王経と密約をかわし、いっしょにその帰路に向かうことにしていた。姜維らはそれを聞くと逃走してしまい、城中の将兵は外に出ることができた。
それより前、陳泰は王経が包囲されたと聞いたとき、大軍が四方から集結するのを待って、それから攻撃討伐を行うのが適当であると考えた。大将軍の司馬昭は、「昔諸葛亮はつねづねこれと同じ志を抱いていたが、けっきょく不可能だった。事は大きく遠大であり、姜維になえる仕事ではない。それに城は早急に落とされるものでないが、食糧が少ないのが緊急事である。陳泰がすみやかに救援に赴いたのは、最上の策にかなっている」
のちに陳泰を中央に召して尚書右僕射とし、官吏の選抜を担当させ、侍中光禄大夫の官位を加えた。
呉の大将孫峻が淮水・泗水の地域に進出すると、陳泰を鎮軍将軍・仮節都督淮北諸軍事とし、徐州の監軍以下に命令して陳泰の指揮を受けさせた。孫峻が退くと軍は帰還し、転じて尚書左僕射となった。
諸葛誕が寿春において反乱を起こすと、司馬昭は全軍をひきいて丘頭に陣を置き、陳泰は行台をとりしきった。
260年、陳泰は逝去し、司空を追贈された。享年不明。
司馬師、司馬昭はいずれも陳泰と親交があり、それに沛国の武ガイもまた仲が良かった。司馬昭は、武ガイに訊ね、「玄伯はその父の司空(陳羣)に比べてどうじゃ」武ガイは、「道理に通じて行ない正しく、広くのびやかな性格をもち、天下の風俗教化をもっておのれの任務とすることができるという点では及びません。すぐれた統率力をもちきわめて簡略であり、功績を打ち立てる点では父以上です」
陳泰はいつも一方面で事変が起こると、噂だけで天下をゆり動かす事態を招くと考え、手軽に事件を報告できるようにと希望した。駅伝を使って文書を送れば、近道を通るので距離が短くなる。司馬昭は荀ギに、「玄伯は沈着勇武、決断力がある。重任をにない、今にも陥落しそうな城を救援しながら、兵力増強を要請せず、また簡便な方法で事件の報告をすることを願ったのは、必ず賊を処理できるからである」と称えた。
干宝の『晋紀』では「高貴郷公が殺害された後、司馬昭が朝臣を集めて相談したが、陳泰だけは出席しなかった。そこで、陳泰の叔父・荀ギをやって、自分たちに理があることを説明させた。しかし、陳泰は「世人は私と叔父上を比べていますが、今(殺された帝に対して忠節を保っているという点で)叔父上は私に敵いません」と言っただけだった。それでも、周囲の人々から強いられて、涙を流して参内した。司馬昭は密室で陳泰と二人きりになると、尋ねた。「私はどうすればいいだろうか」陳泰は答えた「賈充を斬り、天下に謝罪なされよ」。司馬昭は「別の手段を考えてはくれぬのか」と食い下がったが、陳泰は「私は、ただこれを進言しに参ったのです。別の手段など存じません」と答えるのみ。司馬昭はそれ以上、何も言わなかった」
『魏志春秋』では「帝(=高貴郷公)が崩じたとき、太傅の司馬孚と尚書右僕射の陳泰は、帝の遺体を腿に枕させて哭泣の限りを尽くした。そこへ司馬昭が参内し、陳泰は彼に向かって泣いた。」とあり、以下、『晋紀』と同じようなやりとりが記載されている。しかし、この会見の後に「かくして(陳泰は)血を吐いて亡くなった」との記述が付加されている点、大きく異なる。
この二つを受けたとおぼしい『世説新語』では、「高貴郷公が殺されると、宮中の内外は動揺、混乱した。司馬昭は事態を収拾するため、陳泰に相談した。司馬昭「どのようにすればよいか」陳泰「賈充たちを斬り、天下に謝罪することのみ」司馬昭「それ以下で済む方法はないか」陳泰「それ以上の方法はあっても、それ以下はあり得ません」」と、より劇的な言動に変えられている。
『晋紀』『魏志春秋』の記述について、いずれも裴松之は否定的な見方を示している。『晋紀』では陳泰の官位が「太常」とされているが、陳泰は太常に就任したことはない。『魏志春秋』の内容は『晋紀』のそれの焼き直しであるとする。また、裴松之が同面で引用する『博物記』では、当時の世評に「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀。鴻臚卿の官にあった)に劣り、卿は長(陳寔。太丘の長だった)に劣る」という評価があったことも載せている。