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姓名 | 劉馥 |
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字 | 元穎 |
生没年 | ? - 208年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 合肥に州庁を設置し、仁政を施して強固に安定させた人物 |
主な関連人物 | 曹操 |
関連年表 |
200年 揚州刺史となる |
劉馥、字を元穎といい、沛国相県の人である。子に劉靖、孫に劉煕、劉弘らがいる。
動乱を避けて揚州に赴いた。建安の初、袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢をひきつれていっしょに曹操のもとへくらがえさせた。曹操はそれを喜び、司徒の役所から召し出して掾(エン)とした。
のちに孫策が任命した盧江の太守の李述が揚州の刺史厳象を攻撃して殺害したとき、盧江の梅乾、雷緒、陳蘭らが仲間数万人を集めて長江・淮河一帯の地域に跋扈(ばっこ)し、郡や県は破壊された。曹操はちょうど袁紹と争っていたときであったので、劉馥なら東南の事をまかせられると考え、けっきょく上奏して揚州刺史に任命した。
劉馥は任命を受けるや、単身馬に乗り合肥の空城へ行き、州庁を設置して、南方の雷緒らを手なずけ、彼らを安定させたので、献上品があいついで奉られた。数年のうちに、恩恵教化が充分ゆきわたり、人民はその政治を喜び、江や山を越えて身を寄せる流民は五桁の数にのぼった。
そこで学生たちを集め、学校を建て、屯田を拡大し、芍陂・茄陂・七門・呉塘の諸堤防を築いたり修理したりして稲田を灌漑し、お上も人民も蓄積ができた。また城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積み上げ、草むしろ数千枚を編み、さらに魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした。
208年、亡くなった。享年不明。
孫権が十万の軍勢をひきつれ合肥城を百余日にわたって攻撃包囲したが、そのとき連日雨が降りしきり、城壁は今にも崩れようとした。そこでむしろをもってそれをおおい、夜は魚の油を燃やして城壁を照らし、呉軍の行動を監視しつつ防備した。その結果、呉軍は敗れて逃走した。揚州の住民たちはいよいよ劉馥を追慕し、董安于が晋陽に太守として赴任していたけれども、劉馥以上になれないと思いこんだ。堤防のもたらす利益は、現在でも役に立っているほどである。
小説『三国志演義』では、揚州刺史としての功績が言及されている。
しかし、赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害される。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
ただし劉熙は、史実では劉靖の子、すなわち劉馥の孫にあたる人物であり、これは『演義』作者の脚色上の誤りと思われる。