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姓名 | 邢顒 |
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字 | 子昂 |
生没年 | ? - 223年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 徳の高い政治手腕で信頼を得た民の先覚者 |
主な関連人物 | 曹丕 劉楨 田疇 |
関連年表 |
203年 冀州の従事となる 214年 東曹の掾となる 220年 侍中・尚書僕射となる 223年 太常となる |
邢顒、字を子昂といい、河間郡の人である。子に邢友がいる。
孝廉に推挙され、司徒の召命を受けたが、いずれも応じなかった。姓と字を変えて、右北平に赴き、田疇のもとに客となった。それから五年たって、曹操が冀州を平定した。
邢顒は田疇に向かって「黄巾の乱が起こってから二十余年、四海の内は鼎の中が湧き立つごとく乱れ、民衆は流浪しています。今聞くところでは、曹公の法令は厳正であるとか。民は騒乱にあきあきしています。騒乱が行きつくところまで行けば平和が訪れましょう。わが身をもって率先したいと存じます。」といった。かくて旅支度して郷里に帰った。
田疇はいった「邢顒は、民の先覚者である」邢顒はかくして曹操に目通りし、先導となって柳城に撃ち勝つことを願い出た。
曹操は邢顒を召し寄せて冀州の従事とした。
後に、広宗県の長に任命されたが、旧知の将軍の喪を理由に官を棄て去った。所管の役人が告発したが、曹操は、「邢顒は旧主に対してこまやかな感情を持ち、終始変わらぬ節義を抱いている」といい、問題としなかった。
あらためて司空の掾として召し出され、行唐県の令に任命されたが、住民に濃厚養蚕を奨励し、教化はたいへんゆきわたった。
中央に入って丞相門下督となり、左馮翊の長官に昇進したが、病気にかかり官を去った。
当時、曹操の諸子が盛んに属官を選抜していた。命令には「侯家の役人は、法律制度を深く理解している点で邢顒のような連中をとりたてるべきである」とあった。かくて平原侯曹植の家丞にとりたてられた。邢顒は礼をもって取締り、曹植のいいなりになることはなかった。その結果、二人の仲はうまくいかなくなった。
庶子の劉楨が書簡を送って曹植を諌めた「家丞の邢顒は、北方の俊英でありまして、若いころから節操高く、おくゆかしく淡白で、少ない言葉に道理多く、まことにりっぱな人物です。私は実際この人の同僚としてともにお側に列する価値はございません。ところが私への礼遇は特別で、邢顒に対してはかえって疎略です。殿さまはつまらぬ人物とされ、賢者への礼遇は不充分である、庶子の春の花のごときはなやかさをとりあげ、家丞の秋の実りのごとき堅実さを忘れておられると、観察する者は判断するであろうとを、ひそかに心配いたします。お上に対して非難が寄せられる結果を招くとなると、その罪は小さくありません。それゆえにいてもいってもおられません。」
後に丞相の軍事に参与し、東曹の掾に転任した。
それより前、太子がまだ決定されず、曹植がかわいがられていた。丁儀らはいずれも彼の美点を宣伝した。曹操が邢顒に意見を求めると、邢顒は、「庶子をもって嫡子に代えることは、前代の教えに禁じえます。どうか殿下にはそのことをとくとご考察くださいませ」曹操はその言わんとすることを理解した。のちにけっきょく太子少傅にとりたてられ、太傅に昇進した。
曹丕が天子の位につくと、侍中・尚書僕射となり、関内侯の爵を賜った。
側近を離れて司隷校尉となり、太常に移った。
223年、邢顒は逝去し、子の邢友が跡を継いだ。享年不明。
当時の人は彼を称えて「徳行堂々たる邢子昂」といった。
陳寿の評では、厳格さを尊重し、その時代の名士となった、としている。