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魏伝


賈詡 文和かく ぶんわ

姓名賈詡
文和
生没年147年 - 223年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号粛侯
伝評前漢の張良・陳平に比せられる策略家
主な関連人物 曹操 曹丕 
関連年表 190年 牛輔の陣営に入る
200年 官渡の戦い
208年 赤壁の戦い
211年 潼関の戦い
220年 大尉に任命される

略歴

賈ク(クは言偏に羽)、字を文和といい、武威郡の姑臧県の人である。子は賈穆、賈訪がいる。

若いとき認める人はいなかったが、ただ漢陽の閻忠だけは彼を評価し、賈クには張良や陳平(前漢高祖の策士)のような奇略があるといっていた。

孝廉に選ばれて郎になったが、病気で役人をやめ、西方へ帰途、氐族の叛民と出くわし、同行の数十人はすべて捕えられた。賈クは、氐族に段公の外孫だといい、当時の大尉段ケイの権威を利用しておどしたのである。氐族は予想どおり危害を加えようとはせず、盟約を結んで賈クは解放されたが、その他の者はみな殺されてしまった。

董卓が洛陽に入城すると、賈クは平津都尉に任じられ、討虜校尉に栄転した。董卓の娘婿の中郎将牛輔の軍に駐屯した。

董卓が敗死すると、牛輔もまた死んでしまったので、兵隊たちは恐れおののき校尉の李傕、郭シ、張済らは軍隊を解散し、間道づたいに郷里に帰りたいと考えた。賈クは、軍勢をひきつれて長安を占拠し、天子を奉じて天下に征伐するよう進言した。李傕はそこで西へ向かって長安を攻撃した。賈クは左馮翊となった。

賈クは尚書に任命され、官吏の選抜登用を司り、多くの点で政治を匡正した。李傕らは賈クを新任しつつも、けむたがった。たまたま母がなくなったために、官を辞し、光禄大夫の位を授けられた。

李傕と郭シが長安の市中で戦闘を行なった際、李傕は再度要請して賈クを宣義将軍に任じた。李傕らが和睦すると天子を長安から出して、印綬を天子に返した。

この当時、将軍の段ワイが華陰に駐屯していたが、彼は賈クと同郡の出身だった。そのため賈クは李傕のもとを離れて段ワイのもとに身を寄せた。段ワイは内心彼に権力を奪われることを恐れながら、表面的には賈クを立てて十全の礼をもって待遇したので、賈クはますます不安になった。

張繍が南陽にいたとき、賈クはひそかに張繍と手を結んでいた。張繍は人をやって賈クを迎えに行かせた。かくして賈クが赴いたところ、張繍は子孫の礼をとって彼を遇した。賈クは劉表と同盟することを張繍に進言した。

曹操はこのころ張繍征伐を行なったが、ある日突然軍を撤退させ、張繍はみずからこれを追撃した。賈クは張繍に向かって追撃を中止させたが、聞き入られなかった。張繍は軍を進めて交戦し、大敗北を喫してたちもどった。賈クは張繍に向かって、急いでもう一度追撃するよう進言した。張繍はことわって、「君の意見を採用しなかったために敗北した。いま敗北したあと、どうしてもう一度追撃するのだ」といった。賈クは「戦況は変化するもの、勝利まちがいない」と答えた。張繍はこの言葉を信用し、かくて追撃して勝利を得てもどった。

張繍がこの理由をたずねると、賈クは「曹操が兵を撤退するのは、国内に何か事件が起こったに違いありません。追撃を恐れて、一度目は曹操がしんがりをして策をもって精鋭と戦うことになるが、二度目は軍兵に軽装させ全速で進むに相違なく、勝利間違いなしと思ったのです。」張繍ははじめて感服した。

曹操と袁紹が官渡で対峙したさい、袁紹は使者をさしつかわして張繍を招き、同時に賈クに手紙を与えて味方に引き入れようとした。張繍が承知しようとしたが、賈クはこれを諌めて、三つの理由で説得し、曹操に従うように進言した。張繍はこの意見に従い、軍兵をひきつれ曹操のもとに帰順した。曹操は彼らと会見して、喜びながら賈クの手を握った。賈クは執金吾に任命され、都亭侯に封じられ、冀州牧に栄転した。冀州はまだ平定されていなかったため、側において参司空軍事とした。

袁紹が官渡において曹操を包囲し、曹操の兵糧が底をついたとき、曹操はいかなる計略をとったらよいかと、賈クに質問した。賈クは必ず機を逃さず決断を下すことを進言した。そこで軍勢を一つに合わせて撃って出、袁紹の本営から三十余里の陣営を包囲攻撃し、これを撃ち破った。袁紹の軍勢は壊滅状態となり、河北は平定された。賈クは太中大夫に転任した。

208年、曹操は荊州を撃ち破り、長江の流れに沿って東へ下ろうとした。賈クは遠方での軍吏、兵士をねぎらい、民衆を慰撫して土地を落ち着かせれば、江南(呉)は帰服すると進言した。曹操は聞き入れず、けっきょく勝利を得られなかった。

曹操が、韓遂、馬超と渭水の南で交戦したとき、馬超らは和睦の条件として土地の割譲を要請すると同時に、人質を要求してきた。賈クは偽りの承諾を与えるのがよいと主張した。さらに賈クの計略で、韓遂と馬超を分離させて撃ち破った。

この当時、曹丕と弟の曹植の間で党派ができ、正統な後継者の地位を奪い取ろうとしてさかんな議論がおこっていた。曹操は賈クに、後継者問題について詰問したところ、賈クはおし黙ったまま答えなかった。曹操がどうして答えないかときくと、賈クは「ちょうど考えごとをしてすぐに答えなかったのです」といった。曹操がさらに質問すると、賈クは、袁紹と劉表の父子問題を例にして答え、曹操は大笑いした。その結果、曹丕の地位はついに確定した。

曹丕は即位すると、賈クを大尉に任じて、爵位を魏寿郷侯にあげた。曹丕が蜀と呉どちらを先に征伐するのがよいか、賈クに問いた。賈クは、文(政治)を先決し、武(戦争)を後にするのが妥当として進言したが、聞き入られなかった。その後、江陵の戦役を起こし、多数の士卒が戦死して敗北した。

223年、逝去した。享年77歳。


評価

陳寿は賈クと荀攸について「打つ手に失策が無く、事態の変化に通暁していたと言ってよく、前漢の張良や陳平に次ぐ」と高く評価している。確かに史実に残っている賈クの発言や献策の中には、失策や見込み違いの助言と呼べるようなものは見つからない。

一方、『三国志』に注を施した裴松之は、賈クが董卓の死後、李傕・郭シたちの逃亡を止め、長安攻略を進言したことについて、「悪の権化である董卓が獄門台に曝され、ようやく世界が平和になろうとしていたのに、災いの糸口を重ねて結び直し、人民に周末期と同じ苦難を強いたのは、全て賈クの片言に拠るものではないか」と痛烈に批判している。賈クの列伝が荀イクや荀攸と並列されていることに対しても、「(賈クのような人物は)程イク・郭嘉らの伝と一緒に編入すべきであり、荀イク・荀攸と同列にするのは類別を誤っている」と厳しい評価を加えている。

賈クは曹家の下で多くの献策をしたが、自身が降将であり、なおかつ智謀に長けていることから、主君に疑惑を持たれることを恐れ、朝廷を退出した後は私的な交際をせず、息子や娘の縁談相手に高貴な家を選ばなかった。仕える君主を幾度となく替えつつも、その全てで難を避けつつ重用されており、処世術が非常に巧みだったと言える。

『隋書』経籍志には、彼の手による『鈔孫子兵法』『呉起兵法』など兵書の注釈書が存在していたことが記されている。


演義

小説『三国志演義』では史実と大差なく、最初は董卓に仕え、最終的には曹家の謀臣となる。李傕らへの呂布の追出しの献策、張繍下での曹操への奇襲策・曹操への帰順の進言、潼関の戦いにおける離間の計、家督相続の助言、文帝下での重臣としての活躍など、主要なエピソードは正史通りで、機知に長ける参謀としてのイメージは変わりがない。

なお横山光輝の『三国志』では、長期に渡って登場する曹操方の謀臣の中で、唯一顔に一貫性がある人物である。