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姓名 | 郭嘉 |
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字 | 奉孝 |
生没年 | 170年 - 207年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 河北の袁家を滅ぼし、魏の基盤を支えた第一参謀 |
主な関連人物 | 曹操 荀彧 荀攸 |
関連年表 |
198年 呂布討伐 200年 官渡の戦い |
郭嘉、字を奉孝といい、頴川郡の人である。子は郭奕がいる。
郭嘉は若年にして将来を見透す識見をもっていた。天下が乱れて、二十歳のころより姓名事跡をくらまし、ひそかに英傑たちと手を握り、俗世間とはつきあわなかった。そのため、当時の多くの人々には知られず、ただ見識ある者だけが彼を評価した。この時期、司徒の役所に召しだされた。
最初北方に行って袁紹に会ったが、そのとき袁紹の謀臣である辛評と郭図に向かって、袁紹は大業を成せる人物ではないと言って、けっきょくそこを立ち去った。
これより前、頴川の戯志才は策略にすぐれた人物であり、曹操によってその才能を大いに重んじられていたが、早く亡くなった。曹操は荀イクに手紙をやって、戯志才の後に計略を相談できる相手がいないから紹介して欲しいといった。荀イクは郭嘉を推薦した。
曹操は召し出して天下の事を議論した。曹操は、大事を完成させてくれるのはこの男だといい、郭嘉も退出すると喜んで、まことにわしの主君だといった。郭嘉は司空軍祭酒にとりたてられた。
曹操は郭嘉に、当時最大の兵力と領地を持っていた袁紹討伐をするために、どうすればよいか相談した。郭嘉は、劉邦と項羽の戦いを例に挙げ、更に、道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武での袁紹に十の敗因、曹操に十の勝利を述べた。
それ即ち、「道」においては面倒な礼・作法に縛られる袁よりは自然体である曹が優れており、「義」においては天子に逆する袁より奉戴を目指す曹が優れており、「治」においては寛(締りの無さ)を以て寛を救おうとする袁より厳しい曹が優れており、「度」においては猜疑心と血縁で人を用いる袁より才能を重んずる曹が優れており、「謀」においては謀議ばかりして実行しない袁より曹が優れており、「徳」においては上辺を飾る人々が集まる袁より栄達と大義を目指す曹のほうが優れており、「仁」においては目に触れぬ惨状を考慮出来ぬ袁より曹が優れており、「明」においては讒言がはびこる袁より曹が優れており、「文」においては信賞必罰な曹は袁より優れており、また、「武」においては虚勢と数を頼みにする袁より要点と用兵を頼みにする曹は優れているのである、といった論旨であった。
最初、劉備がやってきて降伏したとき、曹操は賓客に対する礼式をもって彼を待遇し、豫州の牧にとりたててやった。郭嘉は曹操に進言して、劉備は人並みはずれた才能をもち、張飛関羽の豪傑を従え、けっきょく人の下位に立つようなことはないので、早く処置するよういった。このとき、曹操は天子を奉戴して天下に号令しており、英雄を味方に招きよせ、信頼を明らかにしようとしていたので、郭嘉の進言に従うことはなかった。
呂布を征伐し、三度戦って彼を撃破した。呂布は退却し、守備を固めた。当時士卒は疲弊しており、曹操は軍をひきあげ帰還したいと思ったが、郭嘉は曹操に急遽彼を攻撃するように進言した。かくて呂布はとらえた。
たまたま曹操は劉備を用いて袁術を迎撃させようとした。郭嘉は程イクとともに車を駆けつけ、曹操を諌めた。そのとき劉備はすでに立ち去っていた。かくて兵をあげて背いた。曹操は、かつて郭嘉の進言を採用しなかったことを後悔した。
孫策は千里の間を転戦し、江東を制覇したが、曹操が袁紹と官渡において対峙していると聞き、長江を渡って北方に向かい、許を襲撃しようと計画した。人々はこれを恐れてびくびくしたが、郭嘉は予想して「孫策は江東を制したばかりで、周囲の警戒を怠り、もし刺客が突然襲ったならば、必ず手にかかって死ぬでしょう」といった。案の定、許貢の食客に殺された。
曹操につき従って袁紹を破り、袁紹は死んだ。またつき従って黎陽にいる袁譚、袁尚を討伐し、連戦してたびたび勝った。将軍たちは勝ちに乗じて最後まで彼らを攻撃しようとした。郭嘉は、このまま攻めると袁譚と袁尚の力は助け合うことになるので、彼らを分断させるため、気を緩ませて、元々仲違いしている謀臣の郭図と逢紀の間で争いが起き、離ればなれさせることができると進言した。曹操は従い、南征した。袁譚と袁尚は予想どおり冀州の主権を争いあった。
袁譚は袁尚の軍に打ち破られ、敗走して平原を守り、辛評を派遣して曹操に降伏を願い出た。曹操は引き返して彼を救った。かくて郭嘉は曹操につき従ってギョウを平定した。またつき従って南皮にいる袁譚を攻撃し、冀州は平定された。
曹操は袁尚とそれを助ける三郡の烏丸族を征伐しようとした。曹操はそこでこっそり盧龍塞を出て、まっすぐに単于の本拠地を目指した。敵兵はおそれおののき合戦した。曹操は大いに彼らを撃ち破り、大部族の王以下の指導者を斬った。袁尚と袁煕は遼東に逃亡した。
郭嘉は、柳城から帰還すると危篤となった。曹操は見舞いの使者を入れ替わりたちかわり訪れさせた。かくて郭嘉は逝去した。享年38歳。
曹操は葬儀に臨席し、深くかなしみ、「天下の事がすめば、後事を郭嘉に託そうと思っていたのに、若死した。運命だなあ」と語った。
郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、曹操から「奉孝だけが、わしの真意を理解している」と絶大な信頼を寄せられていた。208年、曹操軍は南征において、郭嘉の憂慮したとおり疫病に苦しめられ、赤壁の戦いに敗戦した。この時、曹操は「奉孝が生きていれば敗北することはなかったであろうに」とも語っている。
郭嘉は模範的行動に欠くところがあるとして、陳羣はこれを理由にしばしば郭嘉を弾劾した。しかし郭嘉は全く意に介さず、曹操も郭嘉の才能を愛し、彼を重用し続けた。またその一方で、曹操は公正な陳羣の才能も同じく愛し、司空に上奏して重用している。