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蜀漢滅亡

後漢伝


韓当 義公かんとう ぎこう

姓名韓当
義公
生没年? - 226年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評赤壁、夷陵など天下分け目決戦で活躍した武人
主な関連人物 孫権 孫策 孫堅 
関連年表 190年 董卓討伐
195年 江東制覇
208年 赤壁の戦い
210年 南郡の戦い
222年 夷陵の戦い

略歴

韓当、字を義公といい、遼西郡の令支の人である。子に韓綜がいる。

弓術や馬術に巧みであり、体力もあるということで、孫堅から目をかけられ、その征伐に従って各地を転戦した。しばしば危険を犯し、敵を破り賊を捕虜として、その功績により別部司馬に任ぜられた。

孫策が江東に渡ると、その配下として三つの郡(会稽・呉・丹陽)の討伐に参加し、先登校尉に昇進して、兵士二千、騎馬五十匹を授けられた。

孫権の代に、陳蘭の援軍に赴いたが、曹操の武将である臧覇に敗れた。

劉勲の討伐に参加し、黄祖の軍を撃ち破り、軍を還してハ陽を討伐し、楽安県の長の職務にあたったが、山越たちは彼の威を恐れて柔順であった。

のちに、中郎将の官位でもって、周瑜らとともに曹操の進出を赤壁で押し止めて撃ち破った。そのとき、黄蓋が流れ矢にあたり水中に没し、兵卒と間違えられ便所の中に放置されていたが、黄蓋が声を振り絞って韓当を呼んだため、韓当は黄蓋を保護し涙を流して衣服をとりかえてやった。さらに南郡に攻撃をかけてこれを奪取した。これらの功績により偏将軍に昇進し、永昌太守の任にあたることになった。

宜都の戦役(夷陵の戦い)では、陸遜や朱然らとともに、琢郷で蜀の軍に攻撃をかけ、これを徹底的に打ち破った。この功績により威烈将軍にうつり、都亭侯に封じられた。

曹真が南郡に攻撃をかけてきたときには、韓当は、城の東南部分に固めてそこを守り切った。

223年、石城侯に封じられ、昭武将軍に昇進し、冠軍太守の職務にあたり、のちにはさらに都督の称号を加えられた。

敢死軍と解煩軍(いずれも特殊部隊)の兵士一万を率いて、丹陽郡の反乱者たちを討伐し、これを打ち破った。

226年、病気のため死去した。享年不明


評価

韓当は、務め励んで功績を立てたのであるが、軍隊内で下働きの任にあたり、英傑たちの配下に分属させられていたため、爵位を加えられることがなかった。孫堅の時代を通じて、やっと別部司馬となれただけであった。

また、地方に出て軍の指揮にあたると、部将や士卒たちを励まして心を一つにして守りを固め、また中央から派遣された目付け役の意見に慎んで従い、法令を遵守した。孫権は、そうした韓当に満足していた。


演義

『三国志演義』では、反董卓連合に参加した孫堅の配下の4将軍の一人として、程普、黄蓋、祖茂とともに登場し、大刀を武器とする武人として紹介される。孫堅が袁紹と仲違いしたときは、程普、黄蓋とともに袁紹の配下の猛将である顔良、文醜と睨み合いをした。孫堅が劉表を攻撃し戦死する直前の場面では、凶兆が出ていることを孫堅に伝えている。その後も孫策、孫権の配下として活躍、赤壁の戦いの緒戦では袁紹の降将で構成された曹操軍の先鋒を周泰とともに迎撃し、焦触を討ち取っている。また苦肉の策を成功させた黄蓋が敵の矢を受け水に落ちていたところを助けている。夷陵の戦いにおいては、孫氏三代に仕えた将軍として、周泰達とともに陸遜の指揮に不満をもらす発言をするが、陸遜に戒められている。