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劉備が帝位に就き蜀漢建国

魏伝


郭淮 伯済かくわい はくさい

姓名郭淮
伯済
生没年? - 255年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号貞候
伝評軍をよく率いて戦い、常に軍略を立てて備えた将軍
主な関連人物 張郃 陳泰 費耀 戴陵 
関連年表 211年 丞相兵曹議令史となる
218年 司馬となる
220年 雍州刺史・射陽亭候となる
228年 建威将軍となる
231年 揚武将軍となる
240年 前将軍となる
248年 都郷候となる
249年 征西将軍・都督擁涼諸軍事となる
250年 車騎将軍・儀同三司となる

略歴

郭淮、字を伯済といい、太原軍陽曲県の人である。父は郭縕、弟は郭配、郭鎮、子は郭統、孫は郭正、甥は郭奕らがいる。

建安年間に孝廉に推挙され、平原府の丞に任命された。

曹丕は五官将になると、淮水を召して門下賊曹に任命したが、丞相兵曹議令史に転任し、漢中征伐に随行した。

曹操は帰途につくとき、征西将軍夏侯淵を留め置いて劉備を防がせたが、そのとき郭淮を夏侯淵の司馬とした。夏侯淵が劉備と戦ったとき、郭淮は当時病気にかかって出陣しなかった。夏侯淵が殺害されると、軍中は混乱した。郭淮は散卒を集め、 盪寇将軍の張郃を軍主に推し立てたので、諸陣営はやっと落着いた。

その翌日、劉備は漢水を渡って来攻せんとした。諸将の意見は、衆寡敵せず、劉備が勝利に乗じている以上、水に沿って陣営を作り敵を防ごうというものだった。郭淮はいった、「この場合、弱くみせかけても敵を挫くに足りません。策略にはなりえないでしょう。水より遠ざかって陣営を築き、ひきつて呼びよせ、半分渡ったあとで攻撃するほうがよろしいでしょう。劉備を破ることができます。」

陣営を張ったのち、劉備はためらって渡らなかった。淮水はかくて固守し、引き返す気持のないことを示した。実情を報告すると、曹操はそれを嘉し、張郃に節を与え、ふたたび郭淮を司馬とした。

曹丕が王位につくと、関内候の爵位を賜り、鎮西長史に転任した。また従羌護軍を兼務し、左将軍張郃と冠将軍楊秋を監督し、山賊の鄭甘・廬水の反乱蛮族を討伐し、すべて打ち破り平定した。関中ははじめて平定され、住民は仕事に甘んずることができた。

220年、曹丕の帝位に登ったことを奉賀する使者として都にのぼったが、途上で病気にかかったため、距離を計算して滞留した。群臣の祝賀の宴になっていたため、曹丕は厳しい態度で彼を責めた、「昔、禹が諸侯を塗山に集めたとき、防風氏がおくれてやってきたので、死刑を執行した。今、天が下ひとしく慶賀しているのに、卿はもっともぐずぐずして遅くなった。なぜだ。」郭淮は答えた、「臣が聞きますには、五帝は教化を優先し、民は唐虞の時代に遭遇しております。それゆえ、防風氏の誅罰を免れ得るものと承知しておりました。」曹丕はその言葉が気に入り、抜擢して雍州刺史を代行させ、射陽亭候にとりたて、五年して真の刺史とした。

安定の羌族の大帥辟蹏が反乱を起こしたので、討伐してうち破り、これを降伏させた。羌族が来降するたびに、郭淮はいつもまず人をやってその親類関係、男女の多少、年の長幼を調べさせておいた。会見になると、一つ二つのことからその心情を察知し、質問はゆきとどいており、皆その神のごとき明察ぶりを称賛した。

228年、蜀相諸葛亮が祈山に出陣し、将軍の馬謖を街亭に派遣し、高翔を列柳城に駐屯させた。張郃は馬謖を攻撃し、郭淮は高翔の陣営を攻撃し、いずれもうち破った。また、隴西の羌族の名家唐テイを枹罕でうち破り、建威将軍の号を加えられた。

229年、蜀の陳式が武都・陰平を攻撃してきた。郭淮は迎撃に出たが、諸葛亮自ら建威に出陣してきたため敗れ、両郡を奪われ敗北した。

230年、蜀の魏延が羌中に侵攻してきた。費耀と迎撃に出たが陽谿で敗れた。

231年、蜀が鹵城に出陣した。このとき、隴右地方は穀物がなく、関中から大輸送しようと論議していた。郭淮は威光と恩愛をもって羌族をなつけて帰順させ、家ごとに穀物を出させ、公平にその輸送の労役を割り当てたので、兵糧は充足した。揚武将軍に転じた。

234年、諸葛亮は斜谷に出陣すると同時に、蘭抗で田作を行った。このとき、司馬懿は渭南に駐屯していた。郭淮は諸葛亮が北原を争うにちがいないと判断し、先にその地に占めるべきだと主張したが、論者の多くは賛成しなかった。

郭淮はいった、「もし諸葛亮が渭水にまたがり高原に登り、兵を北山に連ね、隴への街道を断ち切り、人民は蛮民をゆり動かすならば、それこそ国家の利益ではございません。」司馬懿はその説に賛成し、郭淮はかくて北原に駐屯した。塹壕・塁壁がまだ完成しないうちに、蜀兵が多数来襲し、郭淮はそれを迎撃すた。数日後、諸葛亮は兵力を誇示して西方へ移動した。諸将は皆西囲を攻撃するつもりかと判断したが、郭淮だけは、これは西方攻撃の姿勢を示して、官軍をすっかりその対応をすっかりその対応にひきつけておくつもりなのであって、陽遂を攻撃するにちがいないと主張した。その夜、はたして陽遂を攻撃してきたが、備えがあたため近づくことができなかった。

240年、蜀将の姜維が隴西に出陣した。郭淮はかくて軍を進め、彊中まで追撃し、姜維は退却した。そのまま羌族迷当らを討伐し、従順な氐族三千余部落を鎮撫し、強制移住させて関中を充実させた。左将軍に昇進した。

涼州の休屠胡の梁元碧らが二千余家の部落をひきいて雍州に帰順した。郭淮は上奏して、安定の高平に住まわせ、住民のとりでとするように要請した。その後、彼らのために西州都尉を設置した。前将軍に転任したが、もとどおり州を宰領した。

244年、曹爽と夏侯玄が蜀を討伐すると、郭淮は将軍を指揮して先鋒となった。郭淮は形成不利と判断したので、すぐさま軍を敵地から脱け出させたため、大敗せずにすんだ。帰還すると、郭淮に節が与えられた。

247年、隴西・南安・金城・西平の諸羌族餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞らが結託して反乱を起し、城邑を攻撃包囲し、南方から蜀の兵を招いた。涼州の蛮族の名家治無戴もまた反乱を起こしてこれに呼応した。討蜀護軍の夏侯覇は諸軍を指揮して為翅に駐屯した。郭淮の軍が最初狄道に到着したとき、論者は皆先に枹罕を討って平定し、内は暴悪な羌族を平らげ、外は賊の計画をうちくだくべきだと主張した。郭淮は、姜維が必ずおしよせて夏侯覇を攻撃すると判断し、そのまま瘋中に入り、南に転じて夏侯覇を迎えた。姜維ははたして為翅を攻撃したが、ちょうど郭淮の軍が到着したので、姜維は逃走した。進撃して反乱の羌族を討伐し、餓何・焼戈を斬った。降伏する者は一万余の部落にのぼった。

248年、蛾遮塞らは河関・白土の古城に駐屯し、河を根拠として抵抗した。郭淮は上流地域で行動すると見せかけておき、ひそかに下流から兵を渡し白土城を占拠し、攻撃して大いにこれをうち破った。治無戴は武威を包囲したが、その家族は西海に留まっていた。郭淮は軍を進めて西海に赴き、襲撃してその妻子を奪取せんとした。たまたま治無戴が敗れて帰途についたので、彼と龍夷の北で戦い、敗走させた。

令居の暴悪な蛮人が石頭山の西に居を構え、街道に出て邪魔をし、王使を絶っていた。郭淮は帰途立ちよって討伐し、これを大いにうち破った。

姜維が石営に出陣し、彊川を通り、西方に向かって治無戴を出迎え、陰平の太守廖化の成重山に留めて城を築かせ、敗れて羌族から確保していた人質を収容した。郭淮は兵を分けてこれを奪取せんとした。諸将は、姜維の軍勢は西方の強力な蛮族と接しており、廖化が要害を占拠している、軍を分けて両方に対処すれば兵の勢力を弱化させ、進んでは姜維を制御しえず、退いては廖化を陥落しえず、計画として成り立たない、兵力を結集して西方に向い、蛮族がまだ連絡しないうちに、その内と外を遮断するほうがよい、これこそ連合している敵を討伐するいくさであると主張した。

郭淮はいった、「今、出かけていった廖化を陥とし、賊の不意をつけば、姜維は必ず狼狽する。姜維が自分で駆けつけるころには、廖化を平定できるであろう。そのうえ姜維をして奔命に疲れさせる結果となる。兵を遠くまで西征させずとも、蛮族との連合は自然と離れる。これこそ一挙両全の策である。」そこで別の夏侯覇らを派遣して、沓中に姜維を追わせ、郭淮は自身で諸軍をひきいて廖化のもとへ行き攻撃した。姜維ははたして馳せ帰って廖化を救い、すべて郭淮の計算どおりとなった。都郷候に昇進した。

249年、征西将軍・都督擁涼諸軍事に昇進した。

この年、雍州刺史の陳泰と策略をねり、蜀の牙門将句安らを翅の側で降伏させた。

250年、詔勅にいう、「昔、漢川の戦役では、ほとんど全滅するところであったが、郭淮は危機に臨み苦難を救った。その功は王府に記録されている。関右におること三十余年、外は外敵を征伐し、内は漢民・蛮民を安んじていた。近年以来、廖化をうち破り、句安を捕虜とした、功績は顕著であり、朕は大いにこれを嘉する。今郭淮を車騎将軍・儀同三司とし、持節・都督はもとのとおりとする。」陽曲候に昇進し、領邑は合計二千七百八十戸となったが、三百戸を分割して一子を亭候にとりたてた。

255年、逝去し、大将軍を追贈され、貞候と諡された。


逸話

『世語』にいう。郭淮の妻は王凌の妹である。王凌が処刑されたとき、妹は当然連座し、御史が赴いて逮捕した。督将と羌族の酋長数千人は叩頭して郭淮に上奏文を奉り妻を留めていただきたいと要請したが、郭淮は従わなかった。妻が道にのぼると、涙を流さない者はなく、人々は扼腕してくやしがり、彼女を無理に留められたいと願った。郭淮の五人の子は叩頭して血を流しながら郭淮に請願した。郭淮は見過ごすに忍びず、やっと左右の者に命じて妻を追わせた。その結果、追いかける者は数千騎にのぼり、数日で帰還した。

郭淮は司馬懿に文章で言上した、「五人の子が母を哀れみ、わが身を惜しまずに命乞いをしております。もし彼らの母がなくなれば、それは五人の子がなくなることであり、五人の子がなくなるのは、また私のないことでもあります。今、さっそくに追いかけてつれ戻しました。もし法律上通用しないことであるならば、当然担当官より罪を受ける覚悟です。お側の者に文章をさし出します。」文章が届くと、司馬懿も彼らをゆるした。


評価

陳寿の評では、郭淮は方略に精通しており、泰州・雍州において名声を流したとしている。